16世紀末、イギリス――シェイクスピアの演劇が人気を博していた、エリザベス一世の治世のころ、船乗りたちは冒険に出て成功を収めることを夢見ていました。
彼らの目指した目的地のひとつが、極東・日本です。
当時イエズス会の宣教師はじめ、カトリック国の人々は日本に上陸していました。
しかし、イギリスやオランダといったプロテスタント国の者にとって、日本は未踏の地。
好奇心と豊かな技術を備えた船乗り三浦按針(ウィリアム・アダムス)にとって、その冒険を断る理由はありませんでした。
愛する妻と二人の子と別れる辛さも好奇心には勝てない……。
元和6年(1620年)4月24日は、そんな彼の命日です。
危険極まりない東洋への船旅を経て、徳川家康と出会い、そして日本に没した、三浦按針の生涯を振り返ってみましょう。
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1600年4月の日本といえば?
1598年、アダムスは気力も体力も充実した34歳の壮年期でした。
オランダ人の船乗り仲間から日本へ誘われた彼は、これを快諾すると五隻からなる船団に乗り込み、サンタ・マリア島を出立。
アフリカ大陸から南米大陸を経由し、さらに太平洋を横切って日本を目指します。
しかし、地球を半周する船旅は想像以上に過酷であり、目的地に着く頃、五隻いた船団はアダムスが乗るリーフデ号だけになっていました。
わずか一隻残ったリーフデ号にしたって、船も人もボロボロです。
1600年4月、豊後国大分に漂着したときには、110名いた乗組員が24名にまで減っており、その大半は重病で身動きもできないような状態。
親切な住民に介抱されたにも関わらず、彼らは次々と斃れてゆき、船長すらろくに動くことはできません。
指揮能力とそれを発揮するための健康が保たれているのは、アダムスやヤン・ヨーステンら数少ない乗員だけでした。
『何故これほどまでに、異国への旅路で苦しまねばならないのか』
アダムスは悩んだに違いありません。
そして彼は上陸した国の事情を知るにつれ、何か重大な危機と歴史の変動が迫っていることに気づくのでした。
西暦1600年4月は旧暦にして慶長5年3月。
豊臣秀吉によるバテレン追放令から3年。
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天下分け目の関ヶ原まで半年もない――アダムスが日本に降り立ったのは、まさにそのような時期でした。
家康にとっては最高のタイミングで来日
異国船漂着の報告を耳にした徳川家康は、是非ともその船長らに面会したいと考えました。
しかし、イエズス会の宣教師たちは激昂しながら主張します。
「オランダ人、イギリス人は真の信仰にとって敵です。あの国の連中は海賊と盗賊ばかり! あんな悪党どもは処刑すべきです!」
そもそもイエズス会の連中たちが、海を越え、わざわざ極東までやって来たのは、宗教改革の結果、カトリックが劣勢になりつつあるからでした。
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しかも当時のイギリスは、エリザベス女王が公然と海賊を支援していて、敵国スペイン船を撃沈してはその積み荷を奪い、荒稼ぎしていたのです。
イギリス人はエリザベス一世を「妖精の女王」にも譬えましたが、敵国にとっては憎たらしい「海賊の女王」にほかなりません。
『まさかこんな極東の地で、イギリス人の海賊野郎に出会うとは!』
と、宣教師が憤激したとしても無理のないところなのです(アダムスは海賊ではなく船乗りですが)。
しかし、家康は彼らの反応を見て、かえって思うところがありました。
『今回、漂着した連中は、布教目当ての者とは違うようだ』
処刑すべきという意見を無視した家康は、とりあえずアダムス本人に話を聞くことにしました。
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