妖刀村正の伝説

徳川家

家康を傷つけ徳川家を呪ったという「妖刀村正の伝説」はドコまで本当なのか?

「村正」と言えば、押しも押されぬ日本一の妖刀。

映画や小説、ゲームなどにも登場する有名な刀の一つです。

でも、実際はどんな刀だったんでしょうか。

所持すると人を斬りたくなっちゃう?

持ち主に祟りがあるの?

今回は戦国から近代までの妖刀村正にまつわる伝説や逸話を集め、その真偽を考察してみました。

妖刀村正伝説は真か偽か――。

あなたはどちらだと思いますか?

村正/photo by Ihimutefu  wikipediaより引用

 


「妖刀村正」というか基本的に実用品だった?

「村正」とは、室町時代から江戸初期にかけて伊勢国(三重県)桑名に存在した刀工集団の名称で、彼らによって製作された日本刀もまた「村正」と呼ばれます。

ほぼ戦国期の刀工ですから、片手打ち(歩行戦に特化した片手で振れる位の長さの刀)や脇差、槍などが主な作品のようですね。

博物館に展示されるような美しい刀と言うよりは、実用品として戦の役に立つ刀を作る事を目的とした刀工集団。

目利きにも「全体的に垢抜けない」「やっぱ日常使いの品だよね」といった評価を付けられたりして、本当に妖刀なの?と聞きたくなります。

ダサい妖刀――それはそれで斬新ですね。

 


徳川家康の祖父、父、息子、妻の死因

さて、基本的な解説が済んだところで、いよいよ

【村正はなぜ妖刀なのか?】

という所に踏み込んでいきたいと思います。

妖刀村正伝説において最も有名な逸話は、やはり戦国から江戸初期にかけての徳川家に関するものでしょう。

徳川家康の祖父、松平清康は25歳の若さで部下に殺害されます。

その子・松平広忠もまた部下に斬られ死亡。

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家康が織田信長と同盟関係にあった時には、息子の松平信康が武田との内通を疑われて自害させられていますし、やはり武田派と疑われた正室の築山殿に至っては家康自身が家臣に命じて殺害させています。

たとえ血の繋がった家族であっても憎しみ合うのが珍しくないのが戦国時代です。

家康の前半生は家庭に恵まれない人生だったと言えるでしょう。

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そして、この家族の命を奪ったのがすべて同じ銘の刀だったとしたらどうでしょう。

祖父や父の命を奪い、息子の介錯や妻の殺害に使われた凶器が全て同じ「村正」のものだったら?

 


家康本人にも襲いかかる村正 幸村も持っていた?

さらに家康は、今川家での人質時代、手を切って怪我をしています。

傷の程度についてはよく分かりませんが、当時の記録に残る程なので、それなりの大きな怪我だったのでしょう。

村正でした。

関ヶ原の戦い】では、敵将を貫いても無傷だったという槍の検分中に家臣が槍を取り落とし、落下地点にあった家康の指を傷つけました。

そこに指があるというのもいかがなものかと思いますが、これもまた……村正でした。

まだあります。

大坂夏の陣】において真田幸村が徳川本陣を急襲した際、家康に投げつけた短刀が村正ならば、慶安年間に由井正雪のクーデター計画が発覚した際、正雪が所持していたのも村正です。

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さらには幕末。

西郷隆盛をはじめ倒幕派の志士の多くが佩刀していたのもまた村正でした。

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ここまで書いてしまうと妖刀伝説は本当のような気がしてくるのですが、それぞれの逸話を改めて検証してみたいと思います。

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