刀狩り

豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

秀吉の「刀狩り」は実際どこまで狩った? 兵農分離をできればOK?

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刀を奪われるのは屈辱的なことでもあった

法の網目、ガバガバじゃねーか……とツッコミたくなるところですが、これには当時の常識も関係しています。

「男は大人になったら刀を持っていて当たり前」という観念だったので、今でいう成人のお祝いとして脇差を贈るのが慣わしの地域も多かったのです。

おおよそ刃渡り30~60cmぐらいの刀ですね。

そのため、刀を奪われるというのは相当な屈辱――というと明治時代の【廃刀令】を思い出されるかもしれませんが、

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さすがに近代ともなれば「刀って必要なくない?」という風潮にもなっており、刀狩り当時とは必ずしも比べられなさそうです。

なんせ戦国時代は、現代のように警察が見回りをしてくれるわけでもありません。

村人同士の合戦もある程ですから、庶民からして自衛のために武器が必要だったんですね。

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「皆自慢の刀があろう、儂に見せておくれ」

とはいえ、秀吉は当初、本気で農民の完全武装解除を狙っていた節があります。

刀狩令の前年に肥前(現・佐賀県&長崎県の大部分)で下地作りと思しき事をしていたのです。

「皆自慢の刀があろう。どれどれ、わしに見せておくれ。ものによっては高く買い取るぞよ」(※イメージです)と言って、村人に刀を持ってこさせ、記録をとっていました。

そして翌年、刀狩令が出された後、肥前では1万6,000振りもの刀が没収されたとか。

南北朝時代あたりから「先祖代々伝わる名刀で化け物退治をしました」という伝承が増えてくるので、おそらく秀吉の時代でもその辺の家に良い刀がゴロゴロあったんでしょうね。

もはやブームというより文化になってきた『刀剣乱舞』ブームで注目される名刀の数々。こちらは東京国立博物館HP(→link)にて閲覧できる「黒韋包金桐紋糸巻太刀(くろかわづつみきんきりもんのいとまきのたち)」です

もしかしたら秀吉は、肥前で「農民から完全に武器を取り上げることができるかどうか」という実験を行ったのではないでしょうか。

そして、予想以上の刀が出てきたため、これを全国でやるのは無理だと感じ、「槍とか弓まで取り上げるの無理じゃね? とりあえず刀だけ没収しとこ」(※イメージです)と考え直したのかもしれません。

さらには秀吉オリジナルの政策というわけでもなく、天正四年(1576年)、越前で柴田勝家が先に刀狩りを実施していた事例が残っています。

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もともと一揆の激しい地域でしたので、それを防ぐためだったと考えられています。

身分の確定というより、武力を奪うのが目的だったんですね。

刀狩の目的は、当初は農民を無力化するものだったのが、次第に兵農分離へウェイトも置かれてきた……それが実情だったのではないでしょうか。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
堀新/井上泰至『秀吉の虚像と実像』(→amazon
刀狩令/Wikipedia
喧嘩停止令/Wikipedia

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