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【豊臣秀保(羽柴秀保)】
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早すぎる病死
羽柴大納言家も並行して存続していれば、豊臣本家がいざというとき、親族で政権の後継者を輩出できる。
そんな目論みは、文禄四年(1595年)春、突如崩れ去ります。
この年の3月、秀吉が高野山に参詣した際、同行した秀次が大和郡山城に豊臣秀保を見舞っています。
不幸にも疱瘡にかかったようです。
こうなると当時の医療では為す術なく、後は本人の体力次第――すると4月10日頃から容態が悪化し、同月16日に病死してしまいました。
享年17。
あまりに早すぎる死です。
だからでしょうか、次のような話が残されています。
「秀保は小姓に川へ飛び込めと命じ、その小姓の巻き添えとなって十津川で水死した」
「殺生禁止の川で魚を取って食べたので神の怒りに触れたためだ」
こちらの描写は、秀保の死後180年近く経った江戸時代中期に書かれた創作であろうと思われ、原文では名前が”秀俊”となっています。
江戸時代の創作物には「名前を少しもじってフィクションということにする(でも実際はわかるよね?)」というパターンがよくありますので、おそらく秀保を指す目的でしょう。
「”殺生関白”こと豊臣秀次の実弟ならば、これぐらいのことはやったのだろう。早死したのがその証拠だ」
そんな風に考えた人が創作したのかもしれません。

殺生関白と呼ばれる豊臣秀次/wikipediaより引用
江戸時代は徳川家に関する著作がタブーであり、そのぶん「豊臣家やその家臣に対してはどんなに悪く書いてもいい」みたいな風潮もあり、その辺りを差し引いて考えなければなりませんね。
なんせ享年17での死でしたので、秀保には子供もおらず、大和大納言家は無嗣断絶となりました。
秀長も草葉の陰でさぞ悲しんだことでしょう。
もっとも、現実的に影響が一番大きかったのは、配下にいた藤堂高虎ですね。
秀長に続き秀保が亡くなり高虎は出家
七度主君を変えたことで知られる藤堂高虎は、もともと豊臣秀長に長く仕えていました。
そして相次ぐ主君の死を悼み、一時は高野山で出家しています。
秀吉に呼び戻されて還俗しておりますが、何度も主君が変わったのは単純に高虎の性格が気難しいとか薄情だからではないでしょう。

藤堂高虎/wikipediaより引用
それよりも次々に亡くなっていった秀吉の血縁者のほうが気になりませんか?
本記事の豊臣秀保だけでなく、秀吉の養子だった御次秀勝(羽柴秀勝)も18歳で病死し、豊臣秀次も結局は切腹している。
秀次の死などは、たしかに猜疑心の強い秀吉の性格が影響しているとは思います。
しかし、後継者候補である血縁者が連続して途絶えてしまう惨状を見ていると、何者かが超長期計画で豊臣家の系譜を根絶していたのでは?と勘ぐりたくなるほどです。
まぁ、結果から見た妄想ですね、すみません。
結局、一代で足軽(農民)から成り上がった者に長期政権の継続は難しい、そんな非情な現実があるのでしょう。
★
冒頭で触れた通り、豊臣秀保については「ともの実子なのか、養子なのか」と言った点も含めてまだ謎が多い状態です。
大河ドラマに取り上げられると注目が集まり、新史料が発見されやすくなりますので、今後の新発見を期待したいですね。
早逝するため地味な扱いにされがちですが、2026年のドラマ用に名前を覚えておくと面白そうです。
長月 七紀・記
【参考】
黒田基樹『羽柴を名乗った人々 (角川選書 578)』(→amazon)
菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(→amazon)
国史大辞典
日本人名大辞典