織田信長が本拠地とした美濃に隣接しながら、戦国史において存在感の薄いエリアがあります。
飛騨です。
漫画やゲームで人気になる有名武将もいなければ、有名な合戦が繰り広げられたこともない。
険しい山に囲まれたエリアだけに、それも仕方ない……と思ったら、実は同地域でも“飛騨の関ヶ原”と呼ばれる「八日町の戦い」が起きていたのをご存知でしょうか?
場所は、戦いの名称でもある岐阜県高山市の八日町。
“関ヶ原”と呼ばれるからには三成派と家康派に別れて争ったのだろう――と思いきや、実は【本能寺の変】をキッカケに起きていて、なんだかややこしい……。
天正10年(1582年)10月26~27日にかけて勃発した「八日町の戦い」を振り返ってみましょう。
江馬輝盛vs姉小路頼綱
八日町の戦いで主役となったのは、飛騨の武将である江馬輝盛と姉小路頼綱です。
輝盛は、江馬家の16代当主。
方針の違いにより父を殺害した後、上杉や武田と組んだりしながら生き残ってきた飛騨国・高原諏訪城の城主です。
一方の姉小路頼綱は『信長の野望』で国力の弱い飛騨の代表的存在として知られますね。
史実においては三木自綱と名乗っていたところ、親の良頼から姉小路性を名乗るように指示されたのがキッカケ。
もともと飛騨国司であった姉小路氏と三木氏は何の関係もなく、むしろ敵対していましたが、朝廷からの官位が欲しくて欲しくてたまらなく、わざわざ名乗ったと言います。
そして従五位下飛騨守を得るのですが、それには飽き足らず大納言も自称(引け目を感じていたのか、織田信長に対しては中納言を名乗っていた)。
そんな権威に憧れを抱く姉小路氏が、飛騨の覇権を争って江馬氏と戦ったのが八日町の戦いでした。

江馬氏家臣十三士の碑/photo by 立花左近 wikipediaより引用
伏兵から発射された銃弾が大将を貫く
江馬輝盛の軍勢3,000人に対し、姉小路軍は2,000人です。
数の上では江馬軍が優勢であり、姉小路の家臣からは籠城戦の声もありましたが、頼綱はそれを拒否。
自ら大阪峠に出向いて野戦に出ました。
八日町付近に進んだ両軍は、荒城川を挟んで決戦を始めます。
戦の情勢は江馬軍が優勢で姉小路軍は押されっぱなし。
こんな状況ですから、輝盛も「勝ったな(確信)」と余裕の状況であったでしょう。
しかし、です。
そんなほぼ勝ち確定の状況で、突如、姉小路軍の伏兵が出現。
奇跡を願うようにして発射された伏兵の銃弾が、事もあろうに大将・江馬輝盛に命中する――土壇場のミラクルが起きます。
たった一発の銃弾により、輝盛は討たれて形勢は逆転。
戦いは姉小路軍の勝利となりました。
敗北した江馬軍の重臣たちは輝盛に続いて殉死したため、そこで亡くなった13人にちなみ、大阪峠は十三墓峠と呼ばれるようになります。
その後は、姉小路側の小島時光によって、居城の高原諏訪城を攻められ、江馬氏は降伏――という話が伝わっていますが、実際は疑問点が多く、少し詳しく見てみたいと思います。
実際の兵数は?
まず兵士の数について。
当時の飛騨国は国力が低く、2,000人とか3,000人もの兵を集めるのは、かなり困難な状況です。
国全体が山に覆われているため石高は少なく、飛騨全体でも約3万5千石しかありません。当然ながら人口も少なく、飛騨全体で約6万人ぐらいだと推定されます。
単純に半分ぐらいが女性だとすると、男性は3万人程度。
そのうち徴兵可能な人間がどれだけいるのか?と考えると、飛騨すべての領土が両陣営のものでもなく、さらに候補者は減ります。
3,000人を動員したという江馬氏が治めていた地域は現在の岐阜県飛騨市神岡町付近。
あの辺りだけで、それだけの戦力を集めるのは至難の業でしょう。なんせ平成22年国勢調査でも人口は9,526人しかなく、当時はさらに少ないはず。
おまけに他国からの援軍もなかった様子ですので、基本的には地元エリアからしか動員はできない。
となれば、余計に人なんて集められません。
どれだけ強引に徴兵しても、2,000人集めるのも厳しいでしょう。

八日町の橋上の江馬輝盛/wikipediaより引用
一方の姉小路側は、小島氏や広瀬氏などといった味方が多く、姉小路氏自体も飛騨南部一帯をほぼ手中に収めていますから、勢力的には明らかに江間軍より大きい。
普通に考えれば、姉小路側の方が兵数は多くなるでしょう。
実際、動員数については様々な記述があり、『飛州軍乱記』では姉小路軍が1,000人、江馬軍が300人と、かなり小規模な人数が記されています。
これなら疑問を払拭できる数字になりますね。
ただし、江馬軍が300では攻める側にしては少な過ぎる印象であり、自ら攻めるのはおかしくないか?という疑問も湧いてきます。
むろん戦は数だけでは決まりません。
事実、江馬輝盛は戦上手として知られ、一度は上杉謙信を破るほどの腕前も持っていましたので、数の不利は跳ね除けられると判断した可能性も否定できません。
その考えの根拠として、輝盛の討死後に家臣が殉死していることが挙げられます。
戦上手の彼は、家臣たちからかなり厚い信頼があり、ゆえに士気は高かったのではなかろうか?ということです。
戦の流れはどうだった?
いくつかの文献には、江馬軍が優勢あるいは互角の状況だったとも記されています。
ただし、江戸時代に書かれたものであるため信頼性は低く、最も信頼性の高い史料とされる『大般若派羅蜜多経の奥書』を参照に、その模様を振り返ってみたいと思います。
奥書によると、江馬氏ははじめ小島氏の小島城を攻めて失敗。
城攻めを諦め退却中に、八日町付近で姉小路らの連合軍と戦いが始まり、約2時間の戦闘を行った後にそのまま敗れ去っています。
詳しい戦模様までは書かれてませんが、人数的なことも考えるとかなりの激戦だったかもしれません。
大逆転劇でなく普通に多勢が無勢を倒した?
複数の書物から導き出されるのは、姉小路氏の根回しの良さ。
結局は、単純な国力差によって江馬氏は撃退されたのではないか?ということです。
この戦いによって、飛騨は内ヶ島氏を除き、姉小路氏が支配することになります。
数年後にはその姉小路氏も秀吉に滅ぼされ、内ヶ島氏も天正大地震で一族郎党、雲に帰っちゃうのですが……。
※地震による山体崩壊で“帰雲城”が土中に埋もれたとされています
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江馬氏は、八日町での敗戦後、輝盛の息子である時政が秀吉配下の金森長近に従い、飛騨の平定に参加。
しかし平定後は、恩賞の問題がトラブルに発展し、秀吉に対して蜂起すると、最終的には父と同じ死に場所付近で切腹したとされています。

輝盛の墓(後ろの石は後に息子が同じ場所で切腹したという切腹石)
ついには合戦の主役がいなくなってしまった飛騨の地。
しかし、いくつかの書物に残されるほど、この地域の人たちにとっては語り継がれてきました。
中には話を面白おかしく盛り上げるため、誇張されたものもあるでしょう。
輝盛については重臣が殉死していることや、領民から墓を建ててもらうほど慕われているような面も見受けられ、「よく戦った」というイメージを残たかったのかもしれません。
普段は日の目を見ないスポットにも、人々の思いは残され、歴史が残る。
八日町の戦いとは、そんな意義はあるのかもしれません。
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若年寄・記
【参考】
国府町史刊行委員会『国府町史 通史編 Ⅰ』
国府史学会『国府史料 第6号』





