三成の率いる西軍と家康総大将の東軍。
ついに両者は関ヶ原でぶつかった。
東西あわせて20万とも称される巨大なうねりは、当初、西に有利かと思われていた。
松尾山の小早川秀秋。
南宮山の毛利秀元(前方に吉川広家)。
さらには栗原山の長宗我部盛親。
仮に中央の平野部で大軍がぶつかり、その力量に大きな差がなければ、中央から東に位置した毛利や長宗我部の西軍が、家康東軍の背後を包むようにして展開できる――多少の兵数不利は簡単に覆せるほど理に適った戦術であった。
そして歴史は動く!
口火を切ったのは家康だった。松尾山の小早川へ向け、裏切りを促す鉄砲を発射すると、秀秋らが攻め込んだのは……。
ドッチに向かって撃ってんのかーい
◆三成率いる石田軍は、正面の黒田長政とぶつかり、大谷吉継は自軍より多い藤堂高虎を相手に善戦するなど、戦い序盤は互角でした。
時間の経過とともに戦力で勝る東軍が優位になるかと思いきや、西軍も士気が高く、戦いの行方は見えず。
そんな中、大きく動いたのが小早川秀秋でした。
なかなか動き出さない秀秋に向かって、家康が発砲した――と伝わっておりますが、実際には単純な合図だったとも。
いずれにせよ、まさしく「そのとき歴史が動いた」のでありました。
吉継「秀秋、待ってました! えっ? 聞いてないよー!」
◆松尾山の麓で戦っていた大谷吉継は、一説には小早川秀秋に対して布陣していたとも考えられております。
初めから秀秋は東軍と見られており、その防備のために守備の要としていたんですね。さすが切れ者!
と思いきや、ここで吉継の斜め上を行く展開が待っておりました。
小早川秀秋だけでなく、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の4部隊までもが西軍に襲いかかったのです。さすがにこれには耐えきれず……。
漢・義弘 撤退戦と言えども前へ前へと進むのじゃ!
◆関が原の戦いで、最も武名をあげたのは勝者の東軍武将ではなく、負けた西軍の島津義弘だったでしょう。
小早川秀秋ほか4部隊の強襲で西軍の負けが決まるや、後ろに退くではなく、東軍のいる前へ前へと突き進み、その陣中を突破。
捨て奸(すてがまり)とは、そのときに用いられた戦法で、要は退路の途中に兵を置き、彼らが追手を引き受けている間に時間を稼いで逃げる――という凄まじいもので、島津豊久など同部隊の重臣たちも命を落としております。
敵を引き受けるために残される者たちの気持ちを考えると……(゚A゚;)ゴクリ
さすが薩摩。凄まじい作戦であります。
徳川四天王も黙っちゃいないが……
◆島津義弘の猛攻に対して立ち向かったのが、同じく猛将として知られる本多忠勝や井伊直政でした。
徳川軍の中枢とも言える彼ら。果敢にも島津の部隊に攻めかかりますが、やはり命を覚悟した死兵たちは戦闘力が凄まじいのでしょう。
このときの攻防で受けた鉄砲傷がもとで井伊直政は死んだという見立てもあります。
詳しくは以下の記事をご覧ください。
戦国時代の火縄銃で撃たれたらどんな死を迎える?ガス壊疽も鉛中毒も怖すぎて
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