ローマの手前――彼らを望む声が響く中で、物乞いの子とされたマンショの告発状について、使節は語り始めます。
法王庁も、告発状に騙されたと揉めております。
プロテスタントに押される中、布教はしたい。それでも日本ごときに騙されてなるものか、というエゴです。
純粋な布教への情熱だけではありません。
本作は誰も彼もが欲望でドロドロしておりますが、法王庁が最もドス黒い気がするのです。
マギと歓声を送るカトリックだって、プロテスタントのことはボコボコに殴り倒すわけで、そこには綺麗なだけの宗教の世界なんてありません。
ゴアでは、ヴァリニャーノもロレンツォを前に苦悩しております。
これからどうなることなのか、少年たちは悩みます。
マンショは、フェリペ2世の歓声と同時に憎しみの矢も増えるという言葉を思い出すのでした。
そこへドラードが、豊臣秀吉が天下を取ったと語り出します。
物乞いの男が天下を取った――。
なるほど、ダブルミーニングか。
ジュリアンは、新たな支配者の元での布教について気にしています。
ポルトガル商人は、信長は何をするのかわからない、秀吉は何を考えているのかわからないと噂しているのだとか。
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茶室でのプライド問答
その秀吉が、茶室にいる様子がまたも描かれます。
本作の秀吉は茶室に入り浸りという印象ですが、この茶室が精神性を表現しているということでしょう。
利休切腹、右近追放。
フロイスに秀吉はそう宣言するわけです。この秀吉精神世界のような場所で、迫るわけですからこれは怖い。
秀吉は、城と領地を捨ててまで、切腹という武士の名誉を捨ててまで信仰を選ぶ右近に苛立ちを見せております。
頭を下げぬ利休と右近に怒りを見せる秀吉に、茶室に来ているフロイスは「プライド」について説明を始めます。
秀吉はそんなフロイスに花見をする構想を語り出します。
八百本の桜、千二百人の美女、彼女らがまとうあでやかな三千枚の衣装。満開の花の下で、女が織部たちのおりあげた衣装を着替えるのです。
儚い浪費。
桜も。女も。秀吉も。やがて散る。
そんな浪費こそ、欲望なのです。
経済効果。権力の誇示。そういうものをもっと越えた、どす黒い業の深さがそこにはある。
茶を点てていると、利休や右近の心がわかる気がするという秀吉。
わかるからこそ、壊したい、握りつぶしたい。
天下人・秀吉「吉野の花見」が雨に祟られブチギレ 全山焼き討ち寸前
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あー、これは怖いな……カトリックとプロテスタントは、同じ神を崇めながらナゼ対立するのかと何度も繰り返されます。
同じ神を信じているからかもしれない――なまじ理解できるからこそ、踏みにじり、破壊したくなる。
少しの違いくらい妥協すればいいのに、しない。
ならば許さない。そんな暗い情念がそこにはあるのかもしれない。
愛と、残酷さと
マンショは、ドラードから母について尋ねられます。
母は生きているのか?
一体彼は何者なのか?
マンショの母は、落城の際にはおりませんでした。マンショと弟を置き去りにして、去っていたのです。
捨てられたのだとすれば、どんな理由があったのか。
マンショは信仰ゆえに孤独な人に保護されて、物乞いをして生き抜いて来たのです。
彼を養った人から知ったのは、孤独だけ。
ヴァリニャーノはキリスト教の愛を説くけれど、その人は愛どころか孤独しか知らなかったのです。
信長が尋ねた愛とは何か、真っ直ぐに生きるとは何か。マンショは自問自答しながら生きて来たのです。
キリスト教には、愛と残酷さがあるとドラードは語ります。
ずっと見てきたからこそ、説得力のある言葉です。
このやりとりのあと、群衆のマギを望む歓声を聞くと、一体これは何なのかと思えて来ます。
彼らは何に熱狂し、求めているのか。
その一方で投石もある。
宿の主人も戦場になるのではないかと怯えるほど、反発も激しくなって来ています。
三年掛けてここまで来たのに、ヴァチカンはあまりに遠い!
ドラードは、これもメスキータの仕業かと詰め寄るのです。
弱さを知ること
そんな足止めの中、ジュリアンはマンショに小さな聖母子像を見せます。
ジュリアンは、この像に手を合わせる気持ちがわかるようになったのかと尋ねるのです。
マンショはわからない。
けれども、ジュリアンは見いだせるようになって来たのかもしれない。
ジュリアンは、弥次郎という少年について語り出します。
特別な人間だからこそ、伝染病の人に寄り添うことができた。けれども、彼は強いわけでも特別なわけでもなかった。
自分の弱さを知っていただけだ――。
強い人間と言いながら、自分の弱さに向き合わなかった自分を振り返るジュリアン。
イエスも強い人間だと思っていたと語るジュリアン。
そうではなくて、自分の弱さを知って見つめていたのだ、だから人の弱さも許せた。
イエスは十字架の上だけではなく、人の心の中にもいる。ジュリアンはそう悟りました。
このジュリアンの悟りについて、彼のこのあとの運命を思うと切なくなって来ます。
強靱な精神性を持つからこそ、信仰心にその身や命を捧げるものだと、思われがちなものですが……。
あの奴隷少女の運命は?
二人はミゲルのエロい詩が描かれた紙を拾います。
ミゲルは、大事にしていた紙はどうでもいいと言い出すのです。
思い起こすものは、船底にいた奴隷少女の目なのです。
フィレンツェで娼婦を抱いたミゲルは、ハイテンションから一転して罪悪感に苦しんでいるのです。
男を快楽に導く官能的な肉体。
そう美化することもあるけれども、本人にとっては屈辱的な運命です。
彼女はどこに行ったのか?
どこでどんな目にあっているのか?
己を楽しませてくれた娼婦と同じ道をたどっているかもしれない。そこまで想像して、いたたまれなくなったのです。
ミゲルは、ジュリアンの心の中にいるイエスに聞けと言い出します。
ヴァリニャーノも、宣教師も、答えを出せない、あの少女たちの運命。
それがわからないのであれば、ローマになんか行かなくていい。そうミゲルは訴えるのです。
実際に、虐待の上亡くなった日本人の女性奴隷は記録に残っています。
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この奴隷と性的な虐待というのも、避けては通れない話です。
「肌の違う者は、神が我々に仕えるためにお作りになった!」
「肌の違う女性は、神が我々に与えた官能的な娯楽!」
完全に差別で、偽善で、どうしようもない理屈ですが、これがまかり通っておりました。
新大陸で。インドで。
そんな目にあう女性たちは大勢いたのです。
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新大陸を発見したヨーロッパ人は、美しい景色や豊かな自然だけに心奪われたわけではありません。
「この大陸のかわいらしい女たちは、我々を誘って快楽へと導いてくれる」
そんな身勝手な理屈が、平然と語られていました。
黒人女性奴隷も、白人相手では楽しめない快楽を味わうための存在とみなされていたのです。
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ディズニー映画にもなった「ポカホンタス」というネイティブアメリカン女性の物語があります。
現在では、こんな描き方はもう時代遅れかつ、差別的とされます。
現地人女性がやって来た男性と恋に落ちるというのは、妄想的なものとしてぶった切られてしまいます。
『モアナと伝説の海』では、主人公少女はラブストーリーは無視して、故郷を助けるため助力はあるものの、モリモリと自分の力で突き進みます。
困難と立ち向かうために、イケメンの力を借りる、ましてやマイノリティに頼るなんて時代遅れ、って話です。
ああ、本作って“大河殺し”だと思いますが、こういうところもそうなんですよね。
フィレンツェで美女と遊んで楽しかった〜♪
というところでおしまいでは、2019年という時代ではもうダメなのです。
ミゲルの苦悩は、当時のものであり、今を生きる我々も考えるべきことなのです。
法皇に質問がある!
そんな中、マルティノはローマに行くつもり満々です。
ドラードと約束した辞書を作ることが出来るのだから、向かいたくて仕方ないのです。
マルティノはシンプルな人物なんですよね。
知的好奇心があればどこまでも行くぞ、というタイプ。
人当たりはマルティノの方がマシだとは思うのですけれども、ここに奇人変人度を加えると、『SHERLOCK』のタイトルロールであるシャーロック・ホームズになるんじゃないかと思います。
マンショは、物乞いの子が拒まれるなら行かないと言い出します。
この四人、ちょっと分裂気味です。
マンショとミゲル。
マルティノとジュリアン。
後者は行く気があって、前者は納得できない。ここまで来て揉めているのです。
この四人のうち誰が選ばれるかというのも、焦点になって来ました。
マルティノは法皇に会い、法皇にガリレオの異端審問の理由を問いたいと言い出します。
ミゲルは奴隷黙認の理由。
マンショはイエスの愛。
それを法皇に聞いて見たいと、彼らは言い出すのです。