法皇との面会を果たした三人。
ジュリアンのもとにやってきて「法皇に会ってこい」と告げます。
馬車に揺られ、面会へと向かうジュリアン。
三賢人の見立ては終わったわけですから、これはお披露目とはちがうもの。いわば、法皇の善意に他なりません。
法皇の前に立ったジュリアンは、通訳を隔てず自分の言葉で語り出します。
三賢人の見立てのせいでジュリアンだけ来られなかったと聞き、複雑な顔の法皇。
仕方ないことなのだけれども、嘆かわしいことでもある——
そんな悲しみが伝わって来ます。
メスキータ曰く、彼は世界の頂点にいる。だからこそ、かえって自由や善意を失うこともあるのです。
そんな年老いた法皇と、目の前の穢れすらないように見えるジュリアン。無垢な賢者とはこういうことかもしれません。
法皇はやはり三人の少年の問いかけに救われていました。
もう誰も言わない、逆らわない、そんな相手に純粋な疑問をぶつけてきたからでしょう。
彼は、答えを見つけることではなく、問い続けることこそ大事だと、それこそが祈りだと語りかけます。
息絶えるその日まで、イエスも己に問い続けた。
裏切られた理由、生き方は正しかったのか。
十字架に磔になり、掌から血を流し続けても、問い続けたからこそ、人々を動かしたのだと。
私も命ある限り、イエスの愛を問い続け、己を信じ、真っ直ぐに生きることを考えなければならない。
そう教えてくれたのは、少年たちだったのだと。
齢83にして死を目の前にし、カトリックの頂点に立つ法皇の、このみずみずしい問いかけ。
この出会いあればこそ、ジュリアンは祈り続けるのだと伝わって来ます。
バチカンに伝わった信長の金屏風は、行方がわからなくなっていると語られるのでした。これも歴史だ……。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
そして帰路へ
四少年は、帰路に就きました。
出発時よりも、どこか大人びているように見えます。
マルティノは活版印刷機を前にして、ドラードに喜びを見せています。
こうして伝わった活版印刷機が、日本での歴史が途切れてしまうことはなんとも残念なことです。金屏風も、活版印刷機も。悲しさがあります。
マンショとミゲルは船倉のことを語ります。
巡察使こそヴァリニャーノは黙っていたと不満を見せるミゲルです。マンショも、弥助を前にした信長の問いについて、ヴァリニャーノのことを思い出しています。
そんな悩むミゲルに、ジュリアンは母との再会できる喜びを語ります。
ミゲルとマンショの前でそれを言うのは……二人とも家族縁が複雑ですからね。そこがジュリアンの無邪気さではあります。
彼らは帰国する母国がどうなっているか、わからないのです。
酸鼻極まりない弾圧
ここからは、キリシタン弾圧が描かれます。
日本におけるキリシタン弾圧は、海外でも注目度が高いテーマなのです。
『沈黙-サイレンス-』もその一例です。
ナゼか?
こんな悪辣極まりないキリスト教徒の弾圧は、皇帝ネロ以来だと悪名高いから。
「日本は宗教に寛容です」
という話は、国内向けと割り切ったほうがよろしいかと思います。
海外、特にキリスト教圏からすれば、あれだけクリスチャンを弾圧しておいてそれはないでしょ、と思われております。
その背景にいたのは、秀吉でした。
高僧と語り合う秀吉からは、侵略への危険性よりも、精神性への敵意が見てとれます。
力と女こそが権力だとフロイスに言ってやった、と語る秀吉。
ここで高僧が笑い飛ばすあたり、俗っぽいですねえ。
さらに、キリシタンの女が秀吉の申し出を断った、死んでも秀吉には侍れないと高僧が指摘します。
団結力は一向宗どころじゃないだろうと。
手を打たねば、悪魔の宗教に全国が支配されてしまうと進言され、秀吉は目をぎらつかせるのでした。
船の上で、楽器の調べを聞く少年たちは、そんなことを知るはずもありません。
この、静と動の対比が残酷さを際立たせています。
少年たちのもとへ、ドラードがキリシタン弾圧の情報を伝えます。
かくして一行は、ゴアへ。
ヴァリニャーノも喜びます。
少年たちは想像を超えて育っていた
ヴァリニャーノは、四少年を出迎えて感無量の様子を見せます。
メスキータはどこか冷たく、再会を見守っています。
マルティノが、食事前にラテン語で挨拶をします。
乾杯し、穏やかな時が流れると思っていたら、メスキータがヴァリニャーノのものだという報告書を読み上げます。
これが、えげつない!
四少年が疑問ひとつ抱かず、教会を褒め称えたということ。
言ったこともない言葉が、読み上げられるのです。
マンショはカトリック万歳だわ。
マルティノは日本が劣っていると言ったことにされるわ。
ミゲルは黒人奴隷に納得しているわ。
ヴァリニャーノは、メスキータから法皇への質問について聞かされ驚いています。
少年たちの口から質問のやりとりを聞かされ、驚るばかりのヴァリニャーノ。
ミゲルとヴァリニャーノの間には、不信感が芽生えた気がします。
マンショから、異端者の火あぶりを見たと聞かされるヴァリニャーノ。メスキータは、彼らは操り人形ではないと告げるのです。
ヴァリニャーノは、東洋の三少年がカトリックに力を与えると思っていたとドラードに語ります。
こうして聞くと、彼はカトリックありきのように見えて来てしまいます。
少年たちは彼の想像を上回ってしまったのか?
ドラードはそれこそ望んだことではないのかと問いかけるのです。
そんな二人は、日本からゴアに引き上げて来た宣教師たちを迎えます。
危険過ぎて、もういられない。
それどころか、カブラルの依頼でスペイン艦隊が日本攻撃をしかねません。
ヴァリニャーノは、受洗した信徒を守らないのか、こんな時こそ側に居るべきだと叱りつけます。それからカブラルを非難します。
じゃあどうするのか、あんな国で何をするつもりかとヴァリニャーノは問われるのでした。
マンショは磔刑像を眺めています。そんな彼に、裸の男を崇める答えは出たのかとヴァリニャーノは問いかけます。
その答えはまだ出ていない。問いかけることこそ祈りだと法皇は語ったのだと、マンショは答えます。
問い続けることこそが祈りならば、答えは永遠にたどり着けないことでもある。ヴァリニャーノは、マンショが抱いている信長の問いかけは、試しただけだと言います。
マンショはそれを否定します。彼も、ずっと問いかけてきたのですから。
信長に聞かれたらどう返すつもりだったかとヴァリニャーノに問われ、マンショは逆に問いかけます。
「あなた方は、どうして簡単に答えを出すのです?」
異端者の火あぶりについて語るマンショ。
人種差別について問いかけるマンショ。
法皇ではなくあなたの答えが聞きたい、でもあなたは答えなかったと責めるマンショ。綺麗事ではない答えを聞きたいと彼は問い詰めるのです。
そのころ、京都から長崎まで、陸路を引っ張られてキリシタンが歩いて行きます。
これも、秀吉による大量処刑の前触れに過ぎないのでした。