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いだてん田畑政治(たばたまさじ)85年の生涯!水泳を愛した東京五輪の立役者

更新日:

大河ドラマと阿部サダヲ。
しかも浜松に縁が深い――なんて言うと多くの方は2017年『おんな城主 直虎』の徳川家康を思い浮かべるでしょう。

しかし2019年からは一変するかもしれません。
その年の大河『いだてん』ではダブル主役の一人・田畑政治(たばたまさじ)を阿部サダヲさんが演じるのです。

彼は、大正から昭和にかけて活躍した新聞記者であり、水泳界の指導者でもありました。

NHKの公式会見でその名が発表されたとき、正直なところ多くの方が
『えっ、誰それ???』
となったことでしょう。

田畑政治は、井伊直虎以上に知名度が低い。
Wikipediaの記述を見ても、おそらく大河ドラマの主人公史上、最も簡潔な経歴しか記されておりません。

それだけに余計に興味をそそられる人物でもあるわけで……一体どんな御方だったのか?
生涯に迫ってみたいと思います!

【TOP画像】
2019年12月29日まで開催中!
「水泳ニッポンの父 田畑政治展」パンフレット(浜松市)

 

大正〜昭和の新聞記者にして水泳指導者

田畑政治は明治31年(1898年)12月1日、静岡県浜松市で生まれました。

実家は造り酒屋。
浜松一のお金持ちとされるほど、財産があったとか。

浜名湾を目にして育った田畑少年は、水泳に心惹かれるようになります。

祖父や父が若くして肺結果で亡くなっており、夭折するのではないかという恐れもあったようで、水泳で心身を鍛え、長生きしようと願ったことでしょう。
占い師にすら長生きはできないと言われたほど。

しかし、彼自身は長寿を保っております。

小学校に入った田畑は、「浜名湾遊泳協会」前身のひとつ「遠州学友会水泳部」に所属するようになります。

そこは彼がまだ幼児であった明治末期から、水泳を志す若者や指導者が集い、浜名湾で泳ぎを競い合う場所。
上京し浜名湾を離れても、心の中には常にあの風景と水泳が残り続けたというわけです。

田畑は、同時に学業でも成績優秀な若者でした。
東京帝国大学を卒業し、大正13年(1924年)に朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社、編集局政治部に所属します。

当時、新聞社に就職するのはエリートというよりも、好奇心旺盛でちょっと変わった道でした。
田畑は記者として、二・二六事件などの取材も精力的にこなし、政治家・鳩山一郎から大層気に入られたとか。

水泳競技の援助金を引き出す際、この人脈が生かされたそうで、こうした幅広い人脈は後にも役立つことになります。

その後、政治経済部長等を歴任し、昭和24年(1949年)、常務に就任しました。

ここまで読んで、
『五輪とどう関係あるのか?』
と突っ込まれた方もおられるでしょう。

彼にはもうひとつの顔があります。
それは水泳指導者であり、そしてオリンピックを率いた顔です。

 

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戦前五輪への挑戦:ロサンゼルス、ベルリン

少し時間を逆戻り。
浜名湾を存分に泳いできた田畑少年は、競技者としても優秀でした。

が、旧浜松中学在学時、病気もあってドクターストップがかかります。このときから指導者として水泳で力を発揮したいと思うようになったのです。

大正5年(1916年)8月には、浜名で泳ぐ水泳部を統合し、「浜名湾遊泳協会」を組織。
帝大に進学し、朝日新聞に就職してからも、浜名に戻っては水泳指導をすることがありました。

その功績が認められ、日本水泳の指導トップに立ちます。

昭和4年(1929年)には、大日本水上競技連盟の事務理事に就任。
昭和5年(1930年)になると、大日本体育協会(現日本スポーツ協会)の専務理事の役に就きます。

水泳監督としてのセンスは、申し分ないものでした。

日本は、金栗四三三島弥彦が参加した明治45年(1912年)のストックホルムオリンピック以来、近代オリンピックに注力してきました。
ただし、競技は限られていました。

そこで田畑は、昭和7年(1932年)開催のロサンゼルス大会に、日本人競泳選手団を送り込むことを目標としたのです。

ロサンゼルス五輪祈念コロシアム/photo by upeslases wikipediaより引用

大会準備につとめ、水泳総監督に就任。
選手団団長ともなりました。

その結果は?

【全体のメダル】
金:7
銀:7
銅:4

【うち水泳のメダル】
金:5
銀:5
銅:2

この好結果は、アメリカの日系人にも勇気を与えました。
ここで考えていただきたい点があります。

田畑の泳いでいた場所は、プールではなく、浜名湾です。
当時の日本では、プールではなく自然の湖、海、河川で泳ぐことがほとんど。
西洋流の水泳法すら、充分に学ばれておりませんでした。

そこから、金メダル獲得まで駆けつけたのですから、その指導の素晴らしさがわかります。

田畑は食事のことまで指導しました。
そして「動物性タンパク質が必要だ!」と考えた彼のもとで、ちょっと恐ろしいこともおきます。

当時は食肉の確保が今より難しかったのか、ペットとして手軽な犬か猫にしようという恐ろしい結論に至ったのです。

そんな話を大河でやるのか?
とゾッとした方、大丈夫です。これは失敗でした。

犬は飼い主のガードが堅いからと狙いを定めた猫。しかし猫は素早く逃げ回るため、失敗に終わったのです。
にしても、こんなことまでするほど当時の水泳は手探りだったのですね。

次は、昭和11年(1936年)ベルリン五輪です。

1936年ベルリン五輪の様子/wikipediaより引用

ナチス政権下のベルリン五輪だけに『いだてん』でどんな扱いになるのか?

ちなみにその様子は映画『アンブロークン』にも登場しております。

 

ナチス政権下だけに、黒人やユダヤ系への差別的な態度が露骨。
長い五輪の歴史でも、史上屈指の暗黒さと言えるでしょう。

ただし、日本勢はこの五輪でも好調で。

【全体のメダル】
金:6
銀:4
銅:8

【うち水泳のメダル】
金:4
銀:2
銅:5

この大会で、社会現象となるほど活躍したのが前畑秀子でした。

前畑秀子/wikipediaより引用

200メートル平泳ぎに出場した前畑は、地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルと接戦を繰り広げ、見事に金メダルを獲得。
実況するNHKアナウンサー河西三省が24回も繰り返した
「前畑がんばれ!」
とあわせて、伝説となったのでした。

 

戦中の苦節と戦後の復活

ベルリンの次は【1940年東京オリンピック】となるはずでした。

昭和14年(1939年)には、田畑が大日本水泳連盟理事長に就任。
もしも実現していたらば、確実に関わっていたはずです。

が、日本は第二次世界大戦に向けて突き進み、田畑だけでなく嘉納治五郎も招致に尽力した同大会は、水泡と帰してしまいます。
それどころではなく、ありとあらゆるスポーツが禁止されてしまうのです。

1940年東京オリンピックポスター/wikipediaより引用

【関連記事】幻の東京五輪

多くの貴重な命も、失われました。
田畑がロサンゼルス大会で、金メダル獲得に感激した西竹一も、硫黄島でその命を散らしました。

西竹一/wikipediaより引用

日本はどん底まで落ち込み、人々は飢えに苦しみ、スポーツどころではありません。
世界各国に敵対感情があるような状態です。

それでも敗戦後、国が立ち上がるにつれ、人々はあの逃した夢を追い始めます。

東京でのオリンピック開催です。

敗戦の翌年、昭和21年(1946年)、田畑は日本体育協会常務理事に就任しました。

続けて昭和23年(1948年)には、日本水泳連盟会長とJOC総務理事就任。
このときは、朝日新聞東京本社代表取締役でもありました。昭和28年(1952年)の退社まで、二足の草鞋を履くことになります。

さらに昭和26年(1951年)、日本体育協会の専務理事に就任。
戦争から立ち上がり、スポーツへ気炎を燃やす中、田畑は、その先頭にいたのです。

 

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ヘルシンキ五輪で日本五輪復帰

おそらく『いだてん』で田畑最大の見せ場となるのが戦後の東京オリンピック誘致でしょう。

これは長い道のりでした。
なんせ日本はオリンピック参加すら断られてきたのです。

昭和23年(1948年)のロンドンオリンピックの開催地は、かつての敵国イギリスです。
いくら政治とスポーツは別といっても、日本への反発は当然あります。
厳しい国内事情の中、鍛え上げてきた選手たちも断念するほかありませんでした。

しかし我慢のならない田畑は、日本選手権の決勝を五輪にぶつけ、日本水泳選手団の実力をアピールすることを忘れません。

特に悔しがったのが、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋廣之進です。
世界記録すら樹立しましたが、日本は国際水泳連盟(FINA)から弾かれています。

その記録が世界で認められることはなかったのです。

古橋廣之進/wikipediaより引用

もし古橋がロンドンに参戦できていたら……。
指導者としての悔しさは募るばかり。

翌昭和24年(1949年)、ロサンゼルスで開始された全米水泳選手権大会に、マッカーサーの許可を得て遠征。
まだまだ日本への風当たりが厳しく、ホテル宿泊を拒まれるばかりか「ジャップ!」と唾棄されることもありました。

そんな彼らに日系人実業家フレッド・イサム・ワダは、宿を提供しました。
日系人にとって、日本人アスリートの活躍は心躍るもの。このワダとの関わりが、のちに生きてきます。

ワダの献身が選手の背中を後押ししたのでしょう。

同大会で日本人選手は活躍し、
「日本人、すごいねえ!」
という周囲の声にワダは心躍らせます。
日系人として苦しみ生きてきた彼にとって、殊のほか嬉しいものでした。

そしてこの年には、国際水泳連盟(FINA)復帰も叶います。
まさに、田畑の策と奮闘あってのことでした。

五輪以外では、活躍めざましい日本人選手。
彼らのためにも、何がなんでも五輪の舞台を取り戻すことこそ急務となりました。

その願いは、次の昭和27年(1952年)ヘルシンキ五輪でついに叶います。

ヘルシンキ五輪記念タワー/photo by Jonik wikipediaより引用

ただし、この大会で水泳陣は不振を極めました。

【全体のメダル】
金:1
銀:6
銅:2

【うち水泳のメダル】
金:0
銀:1
銅:0

あの「フジヤマのトビウオ」こと古橋すら、アメーバ赤痢に苦しんだのです。
選手村で治療のため寝込み、やっと出場しての8位。
おそらくや選手としての最盛期が既に過ぎていたということも影響していたでしょう。

しかし、この大会が田畑に新たな目標を芽生えさせたのでした。

 

東京で五輪をやろう!

ヘルシンキ大会に参加した田畑は、
『なんだ、結構こじんまりとしているな』
とすら思いました。

それと同時に、これらなら日本でも出来ると確信します。
そんな中、ヘルシンキ五輪の翌昭和28年(1953年)、IOC委員のフレンケルが来日しました。

五輪を開催すれば観光客も誘致できます。
戦争で傷ついた日本にとって、魅力あふれる計画。
田畑は、東竜太郎と共に立ち上がり、東京都、そして日本政府の説得にかかります。

東龍太郎/wikipediaより引用

五輪の開催は、予算にいくら必要なのか、未知のもの。
戦前誘致のようにイケイケドンドンでもない中、田畑は粘ります。

なにせ、元政治記者です。
政界へ顔が利くのを使わない手はない。

そこで時の都知事・安井誠一郎や、総理大臣・岸信介らも、田畑の舌で説得したのです。

昭和31年(1956年)、メルボリン五輪にも二大会連続で日本選手団の団長として参加した田畑。
この大会では、団長として選手を見守るだけではなく、大会運営に必要なものについてもジックリと観察しました。

【全体のメダル】
金:4
銀:10
銅:5

【うち水泳のメダル】
金:1
銀:4
銅:0

水泳競技のメダル数こそぼちぼちながら、力強い味方もおりました。

北島義彦招致実行委員長に、日系アメリカ人の実業家フレッド・イサム・ワダ。
ワダはアメリカ大陸を行脚し、日本での五輪開催に向けて説得の任を担ったのです。

田畑のこうした作戦は当たりました。

昭和34年(1959年)、IOC総会。
日本の簡潔なスピーチは、見る側の心を打ちました。

対抗馬は、デトロイト、ウィーン、ブリュッセル。
アジアでの五輪開催はここまでなし。

こうなると、東京であってもよい――そんな声は大きくなります。
かくして東京五輪は、恵まれた状況で開催にまでこぎつけたのでした。

 

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東京五輪への準備着々と

昭和35年(1960年)のローマ五輪。
田畑はオリンピック運営を学ぶために参加しました。

政治的な問題もありました。

例えば、冷戦下の当時は中国といえば、中華民国の時代です。
しかしその名前では、中華人民共和国は不参加となるでしょう。そうした協議を見て、学ぶことは多かったようです。

日本の獲得メダルを増やすため、実施競技の増加も訴えました。

それが柔道と、女子バレーボールです。

柔道といえば、戦前の東京五輪招致に尽力するも、その悲願が叶わないまま世を去った嘉納治五郎が取り組んだ競技。
このころは、世界の多くの国に広がっていました。

女子バレーボールは東京五輪で「東洋の魔女」と絶賛されることになる競技です。
田畑のセンスが光りますね。

 

まさかのJOC辞任

東京五輪の立役者であるといえる田畑は、しかしながら直前でJOCを辞職させられてしまいます。

衝撃は昭和37年(1962年)、インドネシアで開催された第4回アジア競技大会で起こりました。
大会主催者側が、中華民国(台湾)とイスラエルの参加を拒んだのです。

ローマ五輪でもこうした問題があったのは、前述の通り。
スポーツは政治と切り離すべきという理論は、結局のところ理想にとどまってしまうのが、この後のスポーツ大会でも繰り返されることになります。

いずれにせよこの決定に対し、国際オリンピック委員会(IOC)は、本大会を正規競技大会としては認定しないことにします。

決断を迫れる日本は、迷いながらも大会に出場。
日本としてはこの大会を合法化しようと努力するほかありません。
しかし、それはできないことでした。

「無責任な参加」
参加したことが間違いであったと、日本でも批判の声が高まります。

その責任を取らされるカタチで、田畑は辞任せざるを得なくなったのです。
事務総長、さらには選手強化対策本部常任顧問の肩書きが田畑から失われ、同時に組織委員会会長の津島寿一もその座をおりました。

田畑は東京五輪組織委員会の委員として、選手を励ますことになりました。
役職にはついていないものの、熱心に応援は続けます。

確かに東京五輪では無役です。
しかし、彼こそがこの五輪の功労者であることは、紛れもない事実でした。

 

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スポーツ振興に捧げた生涯

東京五輪での日本水泳選手団はいまひとつの活躍でした。

こうした結果を受けて、田畑は水泳復活に向けて動き、その後もスポーツ振興に一生を尽くします。

昭和46年(1971年)、日本体育協会の副会長に就任。
昭和48年(1973年)には、JOC委員長となり、昭和52年(1977年)になって、JOC名誉委員長就任、JOC功労章銀章受賞と続きます。

水泳のみならず、昭和47年(1972年)開催の札幌五輪にも協力を惜しまないなど、スポーツ大会への援助に身を投じたのです。

そして昭和59年(1984年)。
享年85で逝去するまで、日本のスポーツ振興に捧げた、熱い人生でした。




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文:小檜山青

【参考文献】
評伝 田畑政治: オリンピックに生涯をささげた男』杢代哲雄
オリンピック物語―古代ギリシャから現代まで (中公新書ラクレ)』結城和香子

 



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