金栗四三/wikipediaより引用

いだてん特集

マラソン競技中に失踪した金栗四三、ペトレ家に救助され都市伝説となる

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2019年大河ドラマ『いだてん』において、まず間違いなく前半の見所になる場面があります。

明治45年(1912年)、ストックホルム五輪――。
主人公である金栗四三がマラソン競技中に失踪してしまうのです!

競技中に選手が消えるとは何事か!?

ありえないだろ……。
と、現代ならば誰もがそう思うところですが、ときは100年以上も前、しかもマラソン競技自体も黎明期の頃です。

一体そのとき何が起こったのか?

定説では脱水症状とされていますが、美女に釣られた――なんて楽しげな噂も流れていたり。
クドカンこと宮藤官九郎氏のアレンジに期待すると共に、本稿ではその経緯や原因を探ってみましょう。

 

彼の前に女優の美女がいた?

かつてスウェーデンに、ジオ・ペトレという女優がおりました。
1955年から1974年にかけて活動し、現在は引退しております。

 

豊かなブロンド、意志の強そうなまなざし。美しいですね。
なぜこんな女優の話をしたかおわかりでしょうか?

実は、金栗と関係があります。

金栗を救助したのが、彼女の祖父であるユージーン・ペトレ氏。
裕福な実業家であり、当時、そんな家に迷い込んでしまった日本人ランナーについて、ストックホルムではこんな噂が流れました。

「あの日本人マラソン選手が消えた事件を知っているかい? なんでも目の前に美女が二人現れて、彼はフラフラとそのあとについていってしまったんだって!」

確かにジオ・ペトレのような美女がいたとすれば、そんな伝説が生まれても……って、いやいやいや!

もちろん、あくまで伝説です。
金栗四三はその後日本に戻り、第一回箱根駅伝をスタートさせるなどの偉業を打ち立てていきます。

それに、たとえジオ・ペトレのような美女がいたとしても、金栗はそれどころではなかったはずです。

実は当時、本人も記憶が曖昧だったのです。

 

その日本人はなぜそこに?

金栗がペトレ家に迷い込んで来た事件は、証言はあっても曖昧なものでした。

そのためか長いこと、ミステリー扱いされてきたほど。
原因の一つとして、金栗本人も意識がもうろうとしていて、よくわからなかったことがあります。

ペトレ家の庭にふらふらと迷い込んで来た……そんな説もあれば、道路脇の溝の中に倒れ込んでいた……なんて話もあるほどです。

迷い込んでしまった選手が金栗一人ではなく複数人いたんですね。
そのためハッキリと確認できた人がおらず、アヤフヤになってしまいました。

逆に、ハッキリしていること。
それは、金栗がペトレ家の庭で、ラズベリー味のレモネードと菓子を振る舞われ、味わったという点です。

北欧で、なんだかオシャレで優雅な時間ですね。

といっても、本人はそんなハズはなく、フラフラと庭にあった椅子に座り込んでしまったようです。
彼は呆然とした顔で、他の選手が走る様子を見つめるばかりであったとか。

そんな金栗に、ペトレ家の人は飲み物を振る舞ったわけです。

五輪が終わったあと、金栗はペトレ家を訪れ、日本の紙幣入りの美しい小箱を置いていきました。

純粋に御礼を渡したかったのでしょう。
その後も金栗からペトレ家には絵葉書や雑誌を送り続けたのだとか。

それから55年後の1967年。
ストックホルムオリンピック開催55周年のセレモニーが行われたとき、金栗はペトレ家を訪れております。
日本と北欧の心が通い合う、交流あってのことでした。

金栗の失踪事件は、当時、日本では失望と共に受け止められました。
金栗本人も「無念である」として再起を心に誓っております。

では現地の人からは?
というと、これが意外にも好意的に見られています。

金栗がなぜ現地で愛されたのか?

そのことを考える上で当時参加していた【もう一人のマラソン選手】について言及せねばなりません。

彼の存在は、ストックホルムの人々を悲しませました。

その理由を示す前に、本稿では、当時のマラソン選手が直面した厳しい状況から考えてみたいと思います。

 

「ハンガーノック」という概念すらない時代

1910年代当時、アスリートが置かれた環境。
それは現在よりも、ずっと過酷なものでした。

金栗の離脱についても、彼の置かれていた厳しい状況を探らねばなりません。

体調不良

これは金栗本人も証言しています。
カツカツの予算の中、シベリア鉄道で旅をしてきたら、体調を整えるなんて無理な話です。

飛行機で移動できる現代とは比べものにはなりません。

北欧は涼しいのか?

ストックホルムで記録されている7月の最高気温は36度です。
湿度が低い分、日本の夏に比べて涼しいとはいえ、そこまで気温があがれば辛いものがあったでしょう。

スポーツ医学が未発達だった

当時は、現在とは異なりスポーツ医学が未発達。
スタミナ勝負の長距離走は、極めて危険なものであったのです。

現在ならば当たり前の水分とカロリー補給の必要性すら、当時はよくわかっておりませんでした。
これこそが、最大の原因と思われております。

「ハンガーノック症状」

現在、長距離走、自転車レース、登山等のスポーツで危険性が定着し、避けるべきだと考えられている「ハンガーノック症状」。
認識され始めたのは、1950年代から60年代以降のことです。

この症状は、低血糖状態に陥り、ガス欠を起こしてしまい、体は動かなくなり、意識すら吹っ飛ぶことすらある、危険なものです。

アスリートは、決してそうならぬよう、事前に補給食を口にするわけですね。
今では彼らが食べたパッケージを投げ捨てても当たり前のこととして認識されますが、かつては違いました。

「あんな風に食べかすを捨ててけしからん!」
なんて言われたことすらあります。

カーリング女子チームが、もぐもぐとカロリーを補給する姿が人気を呼ぶなんて、時代も進歩したということなのです!

※自転車アニメ『弱虫ペダル』では、補給食をモグモグする姿も人気を集めております

 

脱水症状が引き起こした悲劇

水分補給についても同じことが言えます。

例えば昭和の時代は、部活動で水分を補給しないことが美徳とすらされました。
アラフォー以上の世代の方は大いに納得されるでしょう。

しかしこれには苦い歴史があります。
太平洋戦争の戦地では、迂闊に水を口にすると、それが原因で死に至ることがありました。

その経験から、
「水を飲んではいかんぞ!」
と指導してしまうことがあった――と、それがどうやら日本各地に広がったというわけです。

もちろん、現在では水分補給を欠かすことは絶対にしてはならないと認識されておりますよね。
スポーツ医学は発達するもの。金栗が走った当初は未発達だったというわけです。

スポーツ医学が未発達だったストックホルム五輪では落命した選手もおりました。

そのアスリートこそが、ストックホルムの人々に衝撃を与えた、もう一人のランナー。
ポルトガル代表のフランシスコ・ラザロ選手です。

彼は開会式で旗手を務めるほどで、ポルトガルの人々から期待をこめて送り出されていました。

ポルトガル代表のフランシスコ・ラザロ選手/wikipediaより引用

では、何が彼を悲劇に追い込んだのか?
そこで考えられるのが暑さ対策です。

当時のマラソン選手は、自己流でその対策をしておりました。

多くの選手が頭部に帽子を被るか、あるいは布を巻き付ける中、ラザロは独自の方法を選びます。

競技中のラザロ・確かに帽子を身につけておりません/wikipediaより引用

全身にオイル状のワックスを塗ったのです。

ワックスで太陽光線を防ごう――という狙いであり、実はコレ、古代ギリシャのオリンピック選手と同じ方法でした。

【関連記事】古代オリンピック

しかし、これこそが悲劇の原因となります。

皆さんにもご想像できるかもしれませんが、全身にワックスなど塗ったところで太陽光線を防ぐことなどできません。
ラザロはこれが祟ったのでしょう。

レース中に重篤な脱水症状に陥り、その翌日息を引き取ったのです。

そう考えると、ペトレ家の庭でお茶とお菓子を振る舞われ、水分とカロリーを補給できた金栗はいかに幸運であったか。

ラザロ選手は残念だったけれども、金栗選手は生きていた――そのため、ストックホルムの人々は安心して金栗を思い起こすことができたわけですね。

 

都市伝説が生きていた!

昭和42年(1967年)。
55年ぶりに金栗がストックホルムまで招待され、大歓迎を受けたのも、スウェーデンの方々にそんな思いがあったから。

「半世紀ぶりに解かれるあのミステリー!!」

そうワクワクして、ストックホルムの人々は金栗を待ち受けていました。
都市伝説が解明する瞬間でもあったわけです。

現地を訪れた金栗に、新聞記者は尋ねました。

「二人の美女に出会って誘惑されて消えたというのは、本当ですか?」
「いや、そんなことはありませんよ……後世の人々がでっちあげたのでしょう」

新聞記者ですら思わずそう突っ込んでしまうほど、現地ではまことしやかに都市伝説が語り継がれていたんですね。

日本にもある「口裂け女」とか「トイレの花子さん」などのお話。
それが実在して、目の前に現れて、しかも真相を新聞記者の取材に応じて語ったら?

金栗は、スウェーデンでそんなエキサイティングな存在になっていたわけです。

 

結果は……54年と8ヶ月6日5時間32分20秒

確かにストックホルム五輪の結果は、金栗にとっては不本意だったでしょう。
五輪の後、選手生活を続けている間には、その思いが彼を突き動かしていたはずです。

それでも、半世紀以上経てストックホルムの地に立ったときは違いました。
あの無念の出来事すら、懐かしい思い出となっていたのです。

ペトレ家で出迎えられ、ラズベリー味のレモネードを味わう。
新聞記者の質問に答える。

そして、オリンピックスタジアムにたどり着いた金栗の顔には、マラソンランナーとして生きて来たことと、55年ぶりの再会と歓迎への喜びが浮かんでいました。

いいえ、正確には55年ではありません。
当日のセレモニーで発表されたマラソンタイムは「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒」。

半世紀の都市伝説を経て、金栗四三は再びアスリートとしてそこにいたのでした。

文:小檜山青

【参考文献】
『金栗四三 消えたオリンピック走者』佐山和夫(→amazon link
『走れ二十五万キロ―マラソンの父金栗四三伝』長谷川孝道(→amazon link
『箱根駅伝に賭けた夢 「消えたオリンピック走者」金栗四三がおこした奇跡』佐山和夫(→amazon link

 



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