幕末・維新

ジョン万次郎の劇的な生涯|14才で無人島に漂流しアメリカ捕鯨船で米国へ

2024/11/11

2028年の大河ドラマ『ジョン万』の主人公として“ジョン万次郎”こと中浜万次郎が決まりました。

小栗忠順と同い歳に生まれた彼は、身分としては大きくことなります。

土佐に生まれ、幼くして父を失った万次郎。

家計のために働かねばならない万次郎は寺子屋に通うこともできず、読み書きすらできませんでした。

14歳の時、漁師として海に出た万次郎は南海の孤島に漂流してしまいます。魚を食べ、雨水で命をつなぐ彼らの前に、巨大な船が姿を見せます。

それはアメリカの捕鯨船でした。

新天地アメリカで、彼は持ち前の才知を見抜かれ、英語のみならず、航海術や測量術を身につけます。

そんな彼ですが、故郷の土佐は忘れ難い。望郷の念とともに帰国した祖国は、動乱の渦に巻き込まれていました。

幕末に帰国した万次郎は、日本でどんな活躍をしたのでしょうか。

2023年上半期放送のNHK連続テレビ小説『らんまん』にも登場しました。しかし、明治という新しい時代で、理想とはかけ離れた社会に失望した姿が描かれていました。

なぜ、そう描かれたのか、彼の生涯を辿ってみましょう。

ジョン万次郎/wikipediaより引用

 


無人島で143日間 どう暮らした?

天保12年(1841年)1月――それは黒船が浦賀に姿を見せる少々前のこと。

土佐の海で漁をしていた5人の漁師が遭難し、太平洋にポツンと浮かぶ無人島「鳥島」に流れ着きました。

現在の都庁から582kmという、途方もない場所(東京-大阪間の直線距離401km・車で505km)。

江戸時代ですから、それはもう絶望的な距離であることが、以下の地図からもご理解いただけるでしょう。

無人島に辿り着いた5人は、漂着から143日間。

雨水をすすり、アホウドリや魚を食べ、どうにかして命をつなぎとめておりました。

鳥島(宇喜多秀家が流された八丈島からさらに南へ/1785年にこの島へ流された野村長平は12年間の無人島暮らしの末に島を脱出し土佐への帰国を果たしている)

そこへやってきたのが、見たこともないような巨大な船でした。

その大きさには度肝を抜かれるばかりですが、地獄に仏、いやいやまさしく渡りに船。5人はアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号の乗組員によって救出されます。

「日本人か。ならば国に返さなくてはな」

船長のホイットフィールドはそう判断し、まずは4人をホノルルで降ろしました。

すると、残りの一人、まだ幼い少年の万次郎が訴えかけます。

「このまま船に残りたい」

「……そうか。君が本気なら、この船の名前を与えよう。今日からジョン・マン(John Mung)だ」

米国人と日本人の心温まる友情の始まりと申しましょうか。

こうしてジョンと呼ばれるようになった漁師の少年(後のジョン万次郎・本名は中浜万次郎)は、アメリカ本土へ渡航。

いざアメリカに到着してからのホイットフィールドは、やはり親切な人物でした。

 


英語のハンデをものともせずクラストップの頭脳

ホイットフィールドは万次郎を連れ帰ると、教育を受けさせます。

漁師の息子として生まれ、寺子屋にすら通えなかった万次郎ですが、ホイットフィールドはその聡明さを見抜いていたのです。

万次郎は、マサチューセッツ州フェアヘイヴンにあるバートレット・アカデミーに通い始めました。

頭脳は、クラスでも最優秀の部類。

言葉というハンディキャップがあるにも関わらず飲み込みは早く、2年半の在学で英語だけでなく、測量術、航海術、数学、造船術等を習得し、捕鯨船に乗り込めるだけの知識を身につけてしまうのです。

19世紀、アメリカの捕鯨船・Charles W. Morgan/wikipediaより引用

授業態度は内気で物静か。

常に温厚で、礼儀正しい少年。

ホイットフィールドも、さぞかし鼻が高かったことでしょう。

一等航海士として、捕鯨船に乗船した万次郎は、さらに様々な知識を吸収します。

「いいかい、ジョン。これが世界地図だ。そしてこれがきみの生まれた国、日本だよ」

世界地図を見せられ、万次郎は気が遠くなりました。

想像よりもずっと小さい日本。ただただ驚くばかりです。

「日本は、外国の船となったら攻撃して打ち払ってしまう。このまま鎖国を続けたいようだが……できっこないさ。ジョン、きみもそう思わないか?」

捕鯨船の仲間からそんなふうに言われると、万次郎はその通りだと思わざるを得ませんでした。

 

万次郎の帰国

10年間、アメリカと捕鯨船で過ごした万次郎。

すっかりなじみ、人々の親切は身に染みましたが、そうなると今度は望郷の念が浮かんできます。

折しもカリフォルニア州では、ゴールドラッシュが始まっていた頃でした。

砂金採りの様子/wikipediaより引用

万次郎は捕鯨船を下り、砂金を採掘して旅費を貯めることにします。

鎖国中の日本へ帰国なんてしたら、命を落とすかもしれない――。

そんな覚悟を決めて、ホノルルへ渡った万次郎。

そこで再会した他の漁師仲間とともに、ホエールボート「アドベンチャー号」を買うと上海行きの船に乗船。琉球・摩文仁に上陸します。

嘉永4年(1851年)のこと。そこに待ち受けていたのは、幸運にも薩摩藩主の島津斉彬でした。

※ホエールボートとは、捕鯨の際に鯨に接近して銛を撃ち込むために乗る小舟

 


薩摩藩での取り調べ

「蘭癖」と呼ばれるほど西洋の学問技術を好み、開国と富国強兵が必要であると理解していた島津斉彬。

万次郎はまさに歓迎すべき人物でした

一行は手厚い歓待を受け、アメリカで手にした知識を教えるよう依頼されました。

その期間は、47日間。万次郎は、政治的に自分の行動がどういう意味を持つかわからないまま、身につけた知識を惜しむことなく、薩摩藩に伝えました。

島津斉彬/wikipediaより引用

その後、万次郎は薩摩藩によって長崎奉行へ送られました。

そこで踏み絵を行い、宗教的に問題が無いか調べられ、いきなり9ヶ月もの間、牢に入れられてしまいます。

時代が変わりつつあるとはいえ、当時は黒船前夜です。鎖国を破った万次郎には、厳しい処分が待っていたわけです。

そして万次郎の身柄は、出身地である土佐藩へ送られたのでした。

 

故郷・土佐藩で士分に取り立てられる

久々に踏んだ、故郷の地――。

そこで彼を待っていたのは、藩主の山内容堂と大目付・吉田東洋でした。

山内容堂/wikipediaより引用

薩摩藩と同じく、土佐藩でも万次郎の知識を求めていました。

薩摩藩と同じく、土佐藩でも万次郎の知識を求めていました。

山内容堂も「有志大名」の一人。彼らは知識を武器にして、なんとしても幕政に食い込みたいと考えていたのでした。

そんな土佐にとって、万次郎はまさしく宝です。

迎え入れられた万次郎の話に対し、熱心に耳を傾けたのは容堂が敬愛し重用する、大目付・吉田東洋でした。

土佐藩は攘夷思想から舵を切り、海外との交易を目指すこととなります。薩摩、土佐と、万次郎がいる場所の運命は大きく動いてゆくのです。

かくして万次郎は、「定小者(さだこもの)」という最下級の士分に取り立てられ、高知城下にある教授館にて、万次郎は英語や海外事情を教えることとなります。

思えば文政10年(1827年)、中浜村に万次郎が生まれたとき、彼は貧しい漁師の二男に過ぎませんでした。

幼い頃に父を失い、母ときょうだいで苦労してきたものでした。

それがどうでしょう。

アメリカで勉学に励み、ゴールドラッシュも体験し、さらには士分にまで取り立てられたのです。

ジョン万次郎を大河ドラマの主役に!という声が絶えないのも納得のできる話ですね。ここまででも十分にドラマチックです。

土佐の若者たちは、万次郎の話を熱心に聞きました。

その中には、後藤象二郎や岩崎弥太郎も含まれていました。

万次郎が描いた世界地図を見て、かつての彼と同じように、日本のあまりの小ささに目を丸くする土佐青少年たち。

ここで歴史ファンならば、坂本龍馬の登場を期待することでしょう。

しかし、『ジョン万』ではそれよりも目立ってもおかしくない人物がいます。

まだ14歳、奇しくも万次郎が捕鯨船に救われた時と同い年であった後藤象二郎です。幼くして両親を失った象二郎は、叔父である吉田東洋に育てられていたのでした。

象二郎は教え子の中でも一際熱心でした。万次郎は彼に才知を見出したのか、万国地図を渡したのでした。

こうしてみてくると、土佐藩は開明的な道を歩むように思えます。

しかしそうもいかず、尊皇攘夷思想を掲げた武市半平太率いる土佐勤王党により、吉田東洋暗殺事件が起こります。

この土佐勤王党は、坂本龍馬とも距離が近いため、土佐藩の幕末を描くとなるとなかなか複雑な存在として描かれます。

フィクションの影響のせいか、そこで暗殺を担っていた岡田以蔵も近年は人気が高まっています。

しかし、土佐藩の歩みからすれば暴力による不本意な停滞ともいえる。

万次郎にせよ、後藤象二郎にせよ、こうした尊皇攘夷とは距離のある存在です。『ジョン万』では坂本龍馬視点ではない、新たな土佐藩の像が見られることでしょう。

後藤象二郎/wikipediaより引用

 

黒船来航後、直参旗本・中浜万次郎となる

嘉永6年(1853年)、黒船が来航すると世間は騒然となります。幕府ももはや日和見主義を貫くことができません。

万次郎は、時の老中・阿部正弘により江戸にまで呼び出されました。

そして直参に取り立てられ、「中浜」の姓を与えられたのです。

阿部もまた有能な人材であり、無下に咎を責めるようなことはなく、万次郎の才を買ったのでした。

阿部正弘/wikipediaより引用

話のできる者がいたことで幕府にとって幸か不幸か、この時点ではわかりませんが。

嘉永6年(1853年)、黒船が来航すると、もはや幕府の先延ばしはできなくなり、世間は騒然となります。

幕府は急遽、政治改革に手をつけねばなりません。

そうなると、この危機を予見していた阿部正弘が俄然重要となります。この阿部が大抜擢した人物の代表が、勝海舟となります。

さらに阿部の耳には、土佐藩の万次郎のことも入ってきます。

なんとしても江戸に呼び寄せねばならぬと思われても無理はありません。

長いこと幕府の通辞(通訳)は、オランダ語と中国語ができればよいものでした。それがアメリカ来航以降は英語が求められるようになったのです。

かくして万次郎を江戸にまで呼び出され、直参旗本に大抜擢されます。

幕臣とされた万次郎は、「中浜」姓を与えられたのです。そして阿部の周囲にいる幕臣たちに、海外事情を教え、英文書の翻訳に励むこととなるのでした。

心労と激務がたたったのか。万次郎を抜擢した阿部は、黒船来航の翌年、急死してしまいます。それでも条約締結と開国の流れが止まるわけもありません。

かくして万延元年(1860年)。

万次郎は、条約締結のために派遣された遣米使節団の一員として咸臨丸に乗り込みました。

そうはいっても、咸臨丸はあくまで随伴船であり、正使・副使・目付(観察)以下はポーハタン号に乗り込んでいます。

『逆賊の幕臣』の主役である小栗忠順は、目付としてこちらに乗り込んでいました。

咸臨丸には万次郎、勝海舟、福沢諭吉ら、総勢107名が乗り込んでいます。

一方で船に慣れた万次郎は、アメリカ海軍のブルック大尉とともに、航海のために大いに尽力していました。笠間藩士・小野友五郎も最新鋭の航海術を習得しており、ブルックを驚かせたものでした。

このときのことを勝は持ち前のビッグマウスで喧伝することとなりますが、福沢は冷淡な目線を勝に向けていました。

勝は船酔いで船室に篭りこりであり、態度も悪く、全く役に立っていなかったのです。

艦長である木村義毅も小野友五郎を絶賛し、彼はのちに将軍家茂にお目見得を許されております。福沢が勝をほら吹き扱いと軽蔑するのも理由あってのことでした。

大河ドラマで二年連続描かれるこの船旅は、前半の大きな見どころとなり、従来のイメージを刷新することでしょう。

勝にせよ、福沢にせよ、これからはオランダ語ではなく、英語の時代だとアメリカで痛感させられることとなります。万次郎は彼らのはるか先にいたことになります。

この遣米使節団は、アメリカで大歓迎を受けました。

中でもまだ若い立石斧次郎は「トミー」の愛称とともに女性たちへと人気が大爆発し、『トミー・ポルカ』という曲まで作られたほど。

なお、この遣米使節団はポーハタン号に乗り組んだものだけを指します。咸臨丸組は使節団として政治交渉は行なっておりません。

万次郎は正式な使節としてではなく、ハワイで個人的な再会をしました。彼にとって恩人であるデーマン牧師が歓迎してくれたのです。

孤島で救われた少年が、祖国に戻り、こうして立派な人物となってやってくる。二人にとって感無量の再会でした。

デーマンはこのことを、万次郎を助けたホイットフィールドに手紙で伝えたのでした。

ジョン万次郎は、これからきっと、この二つの国を強く結びつけてくれる。彼はそのために貢献するだろう――そう彼らは願ったことでしょう。しかし、そうはいきませんでした。

これほど歓迎したのだから、さぞやアメリカと日本の関係はよくなるだろう――アメリカ側はそう確信していました。

来日したハリスは「イギリスよりも我が国と先に交渉を始めたあなたたちは運が良い」とスピーチしたほどです。

ただのリップサービスかといえば、さにあらず。確かにイギリスとアメリカを比較すると、関税はじめとする交易条件は、アメリカの方がよいといえる。

阿片戦争以来、アジアでの覇権を確たるものとしたいイギリスと、安全な捕鯨を求めるアメリカでは、日本に対する姿勢にも差はあったのです。

日本にとっても、アメリカという選択肢はありです。

しかし、この使節団来訪の翌1861年、アメリカでは南北戦争が勃発。外交どころではなくなります。

幕臣である榎本武揚らの留学も、アメリカ側が断り、オランダへと変更となりました。この榎本らが留学する目的として、国の近代化と強化もあります。

武器の売買契約も幕府は取り付けていたものの、これも宙に浮くこととなります。

もしもこの頓挫がなければ、幕末日本も、そして万次郎の運命も、大きく変わっていたことでしょう。幕府はアメリカとともに歩むはずであった外交の転換を余儀なくされます。

日本の外交はどうあるべきか?

世界を舞台に覇権争い「グレート・ゲーム」を繰り広げていたイギリスとロシアを、幕府は警戒していました。

オランダは小さすぎる。アメリカは南北戦争が勃発してしまった。そうした消去法の結果、幕府はフランスと接近します。この様子は『逆賊の幕臣』で描かれることになります。

万次郎が英語力で出世を遂げました。幕閣にはフランス語力で出世を遂げる人物がおります。栗本鋤雲です。

左遷された函館でフランス宣教師カションと語学交流するうちに、彼はフランス語を習得します。そして外交においてフランスと結ぶ利を説き、盟友たる小栗忠順とともに関東近郊を急速に近代化してゆくことになります。

万次郎はそうした幕閣とは異なる目線で、幕末を生きてゆくことになります。幕閣中枢のエリートでフランスに近い小栗忠順と、漁民出身でアメリカに近い中浜万次郎と、二年連続異なる目線で幕末を見ることとなるのです。

語学にせよ、栗本・小栗はフランス語、万次郎は英語を重視します。

南北戦争の見逃せぬ影響として、終結に伴う武器の余剰があげられます。

もしもこの戦争がなければ、前述したように、正規ルートで契約していた幕府の手に渡るはずでした。しかし、戦争の結果大量に余った武器は、国家の手を離れてゆきます。

この武器を内戦が起きそうな国に売りつければ、儲かるのではないかーーそんな商人の発想が、日本の運命を変えてゆきます。

『八重の桜』の第一回冒頭では、南北戦争の場面が描かれました。あれには深い意味があります。八重が装備していたスペンサー銃こそ、南北戦争で威力が証明された新兵器であったのです。

のちにこの新兵器が薩摩や長州へと流れていく様が、劇中で描かれてゆきます。

『八重の桜』のこうした描写は画期的ではあったものの、限られています。目線が京都にいた会津目線ということもあり、何もしない幕府と、動いた薩摩と長州という対比に見えます。

これは正確ではありません。武器は本来、アメリカから幕府に流れるはずでした。

幕府は何もしていないどころか、小栗と栗本が中心となり、フランス式による最新鋭の軍事改革を進めていたのです。

幕臣たちがフランス経由で武器を調達する一方、万次郎の英語力が求められる局面もあります。彼はその英語力を活かし、薩摩藩、そして故郷である土佐藩でも活躍することとなりました。

豊かな彼の知識は、誰にとっても喉から手が出るほど欲しいもの。まさに引っ張りだこでした。

彼には政治的な野心はない。しかし、この英語力という武器が、歴史において皮肉な作用をしていまいます。

幕閣で外交を担当していた小栗と栗本らは、イギリスの危険性を知っていました。フェートン号事件や阿片戦争以来、ともかく危険で接近には警戒せねばならぬと考えていたのです。

イギリスは関税に対する姿勢も厳しい。自国を優先させ、日本経済に悪影響を及びしかねない条件を提示してきます。小栗はそれを退けるために、対抗策を練らねばなりませんでした。

しかし、万次郎にせよ、彼に接触してくる薩摩藩や土佐藩のものにせよ、イギリスについてどう考えていたのでしょうか。

尊王攘夷を掲げた薩長土の過激藩士たちは、京都中心に政争を繰り広げておりました。

しかし、これは手痛い形で跳ね返ってきます。

土佐藩は山内容堂側近である吉田東洋が、武市半平太率いる土佐勤王党により暗殺されました。

容堂はしばらく鳴りを潜めていたものの、政治権力を取り返すと、この土佐勤王党を壊滅に追い込みます。容堂のもとで土佐勤王党を厳しく取り締まったなかには、吉田東洋を育ての親としていた後藤象二郎もおりました。

薩摩藩は、生麦事件を契機とした薩英戦争に巻き込まれます。

長州藩は、列強の反撃による下関戦争により、完敗しました。

こうした中で、イギリスは薩摩と長州に目をつけます。

かれらからすれば、フランスと幕府は扱いにくい。フランスが絹貿易を優先的に進めていることも気に入りません。

幕府がイギリスの介入を警戒しつつ、近代化を急速に進めることも懸念材料でした。日本が近代化してしまっては、阿片戦争以来続いてきた、イギリスが先頭に立って東洋から利益を得るというシナリオは成立しなくなるかもしれません。

ここはフランスと手を携えている幕府を潰し、イギリスの言うことを聞き入れる傀儡政権を打ち立ててはどうか?

そう考えたイギリスにとって、薩長の若き志士たちは御し易い相手でした。老成した幕臣よりもずっと聞き分けがよいのです。

万次郎はそのことに気づいていたのでしょうか。万次郎は薩摩藩と土佐藩が武器を購入する際、通訳として立ち会っています。

その武器が倒幕に使われかねないことを、彼はどこまで把握していたのでしょうか。

慶応3年(1867年)12月、彼は急遽江戸に戻ります。

そのとき、幕府の命運は風前の灯火でした。

ハワイでは恩人のデーマン牧師と再会を果たしました。

デーマンはホイットフィールドに、彼が育て上げたジョン・マンが、祖国で立派に役割を果たしていると、手紙で伝えます。

ジョン万次郎が描いた世界地図/wikipediaより引用

そのあと、万次郎は日本と土佐藩のため、全力で働き続けました。

豊かな彼の知識は、誰にとっても喉から手が出るほど欲しいもの。まさに引っ張りだこでした。

ただし、彼には政治的な野心はありません。

明治の世が始まるなか、幕臣たちはそれぞれの運命と向き合うことになりました。

小栗忠順は極めて不幸な例です。冤罪で捕縛され、処刑されました。

箱館戦争まで転戦し、投獄された榎本武揚のような者もいます。

隠棲し、弍臣(二人の主君に出仕すること)となることを拒む栗本鋤雲のような者もいます。

幕府にも明治政府にも絶望し、民間で生きると決めた者もいます。

この点、三河以来でもなく、例外的な出世を遂げた万次郎はそこまで迷于余地はなかったのでしょう。そんなことよりも、新しい世に尽くしたい気持ちが強かったのかもしれません。

明治2年(1869年)には、明治政府により創設された開成学校(現・東京大学)に英語教授に就任。幕臣としての誇りゆえに私立慶應義塾を開いた福沢諭吉と比べると理解しやすいでしょう。

明治3年(1870年)、には、普仏戦争視察団として薩摩閥陸軍人である大山巌らと共に欧州へ向かいました。

旅程はアメリカ経由であり、ここで念願のホイットフィールドとの再会を果たしました。

しかし、この再会は喜ばしいだけのものではありませんでした。

自らの原点を恩人との再会で考え直すこととなったのです。

今回の旅の目的は、プロイセンとフランスの戦争視察でした。この戦いはプロイセンの大勝利に終わり、ナポレオン3世の第二帝政崩壊をもたらすこととなります。

かつて幕府と手を結び、最後の将軍である徳川慶喜に軍服を贈ったナポレオン3世。幕末の日本は初代以来のナポレオンへの憧れがあったものですが、それも終わりを告げることとなります。幕府が採用していたフランス式の軍隊制度刷新の契機となりました。

もしも万次郎が野心家ならば、そんな情報をいち早く活かしたかもしれません。

しかし、彼の胸に去来するのは、そんなことではありませんでした。

かつてホイットフィールドと誓ったのは、日本にデモクラシーをもたらすことでした。

そしてもうひとつ、民衆に多大な損失を残す戦争は避けねばならぬこと。万次郎の才知で、それを避けるよう祖国を導くことができるだろう。そう希望を託していたはずでした。

しかし、運命は残酷な形で裏切りました。

幕府とアメリカを引き離し、万次郎の人生を阻んだのは南北戦争です。

このとき余った武器に目をつけたのがイギリスです。イギリスは最新鋭の武器を倒幕勢力に売り付けました。幕府は大政奉還により、政権移譲を果たしていました。本来そこで話は終わったはずです。

しかし、最新鋭武器がある薩長はこれを使いたい。完膚無きまで敵を叩き潰し、危険性を排除したい。

孝明天皇の不興により、朝敵とされた長州藩はその汚名を払拭したい思いも渦巻いていました。

彼らにその汚名を着せた憎き会津藩をそうできればよいに決まっています。

イギリス商人のグラバーは、「我こそがアンチ徳川」と語っていました。武器で儲けるのであれば、内戦はまさしくビジネスチャンスです。

彼らの意見が一致し、江戸から奥羽を経て、函館まで、日本は戦火に包まれたのでした。

万次郎は、討幕を狙う勢力の英語通訳をこなしてもいる。

戦争を阻止するどころは、加担したと言われても仕方ないのです。

万次郎は旅の途中、ロンドンで足に腫瘍ができたことを理由に、一行と別れ帰国することを選びました。

そして日本に戻った万次郎の姿は、歴史から消えてしまいます。命は続いていたものの、表舞台でその姿を見ることはなくなりました。

幕末に重宝された英語ができる人材も、留学生が帰国すると必要性が薄れてゆきます。

薩長からは優先的に人材がイギリスやアメリカに送り込まれ、帰国後、出世を遂げてゆきます。

そうしてできてゆく新たな世に、デモクラシーは根付いたのでしょうか。

確かに身分制度はなくなった。しかし、それにかわった藩閥政治は、のちに万次郎の故郷である土佐藩すら政治から弾き飛ばすことになります。

後藤象二郎や板垣退助ら、土佐出身のものたちもこの状況には歯噛みするばかりでした。

万次郎が歴史から消えたのは、そんな政治争いではないものを感じさせます。

明治17年(1884年)、デーマン牧師は来日しました。彼は万次郎を探すものの、誰もその消息を知りません。

亡くなったのではないか。そう語られるほど、忘れ去られていました。

死亡は誤報であり、やっと再開した彼は健康な父として生きていました。

しかし、デーマンは訝しみます。

日本が開国後、ここまでくるにあたり、彼は随分と力を尽くしたちがいない。

しかし、彼に財産はなく、子の扶養を頼りにして暮らしている。日本政府は彼に恩給すら支給していない。

これほどの人物を重く扱い、国家の名誉を回復するべきではないだろうか。そう困惑を記しているのです。

明治31年(1898年)、彼は72歳という長寿で没しました。その晩年は、革命の夢破れた革命家のような、侘しいものであったと伝えられています。

大河ドラマは二年連続、同じ時代、同じ年齢の主人公を扱います。そしてどちらも悲しい終焉を迎えます。

2027年『逆賊の幕臣』は、明治を見る前に命を落とす小栗忠順の無惨な最期が描かれます。

では、明治をみた万次郎は幸せであったのかどうか。

むしろ「革命」の挫折と、暗い未来の予感を見てしまうのではないか。そんな予感もします。

万次郎は若い頃、アメリカで夢見たデモクラシーが根付くことを見ることはありませんでした。

しかし、戦争がもたらす未来の足音は聞いていたからこそ、戦争視察の旅程から姿を消したのかもしれません。

そんな万次郎の人生からは、炭鉱のカナリアのような切なさを感じずにはいられないのです。

 

ホイットフィールドとの再会

明治維新のあと、明治3年(1870年)。

万次郎は普仏戦争の視察のため、大山巌(西郷隆盛のイトコ)らと欧州へ派遣されました。

その途中、万次郎はアメリカ・マサチューセッツ州フェアヘイヴンにて、懐かしい人物と再会しました。

大恩人のホイットフィールドです。

彼は万次郎が祖国で立派に役割を果たしていることを、大いに喜んだのでした。

そして向かった欧州。

ロンドン滞在中、脚に潰瘍ができてしまったことを理由とし、万次郎は急遽帰国します。

自分は帰国後、この国をよくするために尽くして来た。

しかし、その結果、祖国は自分が目指した方向とは別の方に向かっているのではないか……。

万次郎の胸に、そんな思いがよぎりました。

確かに時代は変わったものの、明治政府は藩閥政治が行われ、腐敗も目に余るものがありました。

万次郎がアメリカで見たデモクラシーとは別の何かが、日本を覆っている――。

戦争を見学するよりも、もっと参考すべきものがあるのではないか?

そう考えたところで、万次郎は無力です。

政治的野心もなければ、藩閥という後ろ盾もろくにない。

もはや明治政府も万次郎に頼る必要はありません。帰国した留学生や、お抱え外国人を雇えば済むことでした。

岩倉使節団(左から木戸孝允・山口尚芳・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通)/wikipediaより引用

万次郎は帰国後、政治に関わることはありませんでした。

教育者として、東京帝国大学で教鞭を執ることを選ぶのです。

 

幸福な一家の父親、されど貧しく

明治17年(1884年)、デーマン牧師が来日しました。

彼の目的のひとつに、旧友であるジョン・マンに再会することがありました。

そこで聞いたのは、驚愕の知らせでした。

「彼ならもう亡くなっていると思いますよ」

デーマンは驚きました。

しかしそれは違ったのです。

万次郎は世間から忘れられていただけで、生きていました。

デーマンが再会したのは、極めて健康で幸福な一家の父親となった、旧友の姿でした。

しかしデーマンは、嘆きを隠せません。

あれほどまでに日本の開国に尽くした万次郎なのに、財産も何もなく、子息の扶養に頼って暮らしていたのです。

その大きな功績に、日本の政府は十分に報いていないではないか。それがデーマンの実感でした。

アメリカ帰国後、デーマンは自らが発行する新聞で、こう主張しました。

日本政府は、かつて日本のために尽くしたこの年老いた忠実な臣民に対して、十分な恩給を与えるべきである。

そのことにより、政府の名誉を高めるよう、私は心の底から願ってやまない――。

しかしデーマンの願いは叶いませんでした。

ひっそりと、隠者のように静かな余生を過ごし……明治31年(1898年)、中浜万次郎、死去。享年72でした。

万次郎の人生は、幕末の日本だけではなく、多くの人々の好奇心を掻き立てました。

大胆に脚色され、ミュージカル『太平洋序曲』にもなっており、最近では2017年のブロードウェイでも上演されています。

※『太平洋序曲』より「神奈川へようこそ」

彼の人生は、幕末において日米間を結んだ第一人者として、今なお語り継がれています。


あわせて読みたい関連記事

島津斉彬
幕末薩摩を躍進させた島津斉彬の生涯|西郷らを見出した“幕末の四賢侯”とは

続きを見る

阿部正弘
幕末日本の先を見据えていた阿部正弘の生涯~その死後に幕府の崩壊が始まった?

続きを見る

雲行丸
日本初の蒸気船「雲行丸」薩摩で設計したのは米国帰りのジョン万次郎だった

続きを見る

坂本龍馬
坂本龍馬は幕末当時から英雄扱いされていた? 激動の生涯33年を一気に振り返る

続きを見る

岩崎弥太郎
一代で三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の豪腕!一介の土佐郷士が巨大企業を作るまで

続きを見る

【参考文献】
国史大辞典
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon
ほか

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

-幕末・維新
-

右クリックのご使用はできません
目次