明治31年(1898年)11月12日はジョン万次郎こと中浜万次郎の命日です。
「ジョン」と「万次郎」という組み合わせが軽妙で、なんだか昭和のお笑い芸人みたいな印象のせいか。
何となく楽しげな雰囲気に思えてしまいますが、彼の生涯はかなり波乱万丈。
14才のときに南海の孤島へ漂流し、そこで数ヶ月間どうにかこうにか生をつなぎとめ、たまたま救助してくれた米国捕鯨船に乗ったかと思ったら、アメリカへ渡って学を修め、帰国後は各方面から重宝される。
ジョン万次郎は優秀な頭脳を持っていたため、通訳として重宝されただけでなく、アメリカの最新技術などにも通じていたのです。
では幕末に帰国した後は、日本で実際どんな活躍があったか?
万次郎の生涯を振り返ってみましょう。
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無人島で143日間 どう暮らした?
天保12年(1841年)1月――それは黒船が浦賀に姿を見せる少々前のこと。
土佐の海で漁をしていた5人の漁師が遭難し、太平洋にポツンと浮かぶ無人島「鳥島」に流れ着きました。
現在の都庁から582kmという、途方もない場所(東京-大阪間の直線距離401km・車で505km)。
江戸時代ですから、それはもう絶望的な距離であることが、以下の地図からもご理解いただけるでしょう。
無人島に辿り着いた5人は、漂着から143日間。
雨水をすすり、アホウドリや魚を食べ、どうにかして命をつなぎとめておりました。
そこへやってきたのが、見たこともないような巨大な船でした。
その大きさには度肝を抜かれるばかりですが、地獄に仏、いやいやまさしく渡りに船。5人はアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号の乗組員によって救出されます。
「日本人か。ならば国に返さなくてはな」
船長のホイットフィールドはそう判断し、まずは4人をホノルルで降ろしました。
すると、残りの一人、まだ幼い少年の万次郎が訴えかけます。
「このまま船に残りたい」
「……そうか。君が本気なら、この船の名前を与えよう。今日からジョン・マン(John Mung)だ」
米国人と日本人の心温まる友情の始まりと申しましょうか。
こうしてジョンと呼ばれるようになった漁師の少年(後のジョン万次郎・本名は中浜万次郎)は、アメリカ本土へ渡航。
いざアメリカに到着してからのホイットフィールドは、やはり親切な人物でした。
英語のハンデをものともせずクラストップの頭脳
ホイットフィールドは万次郎を連れ帰ると、教育を受けさせます。
漁師の息子として生まれ、寺子屋にすら通えなかった万次郎ですが、ホイットフィールドはその聡明さを見抜いていたのです。
万次郎は、マサチューセッツ州フェアヘイヴンにあるバートレット・アカデミーに通い始めました。
頭脳は、クラスでも最優秀の部類。
言葉というハンディキャップがあるにも関わらず飲み込みは早く、2年半の在学で英語だけでなく、測量術、航海術、数学、造船術等を習得し、捕鯨船に乗り込めるだけの知識を身につけてしまうのです。
授業態度は内気で物静か。
常に温厚で、礼儀正しい少年。
ホイットフィールドも、さぞかし鼻が高かったことでしょう。
一等航海士として、捕鯨船に乗船した万次郎は、さらに様々な知識を吸収します。
「いいかい、ジョン。これが世界地図だ。そしてこれがきみの生まれた国、日本だよ」
世界地図を見せられ、万次郎は気が遠くなりました。
想像よりもずっと小さい日本。ただただ驚くばかりです。
「日本は、外国の船となったら攻撃して打ち払ってしまう。このまま鎖国を続けたいようだが……できっこないさ。ジョン、きみもそう思わないか?」
捕鯨船の仲間からそんなふうに言われると、万次郎はその通りだと思わざるを得ませんでした。
万次郎の帰国
10年間、アメリカと捕鯨船で過ごした万次郎。
すっかりなじみ、人々の親切は身に染みましたが、そうなると今度は望郷の念が浮かんできます。
折しもカリフォルニア州では、ゴールドラッシュが始まっていた頃でした。
万次郎は捕鯨船を下り、砂金を採掘して旅費を貯めることにします。
鎖国中の日本へ帰国なんてしたら、命を落とすかもしれない――。
そんな覚悟を決めて、ホノルルへ渡った万次郎。
そこで再会した他の漁師仲間とともに、ホエールボート「アドベンチャー号」を買うと上海行きの船に乗船。琉球・摩文仁に上陸します。
嘉永4年(1851年)のこと。そこに待ち受けていたのは、幸運にも薩摩藩主の島津斉彬でした。
※ホエールボートとは、捕鯨の際に鯨に接近して銛を撃ち込むために乗る小舟
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