会津は長州が嫌い。
長いことそう言われてきましたが、以前、私は福島出身の知人にこう言われたことがあります。
「福島県はいつまでも戊辰戦争のことを引きずっていると言われますけど、私のところではそうじゃないです。三島ですよ、三島」
三島とは、薩摩の三島通庸(みちつね)とのこと。
福島のある地方では、先祖代々「三島県令は酷かった」と語り継がれてきたというのです。
それを補うような話が2013年大河ドラマのヒロイン新島八重にあります。
彼女は、夫・新島襄の体調管理をあまりに厳しくしたため、からかい半分、襄からこう呼ばれました。
「三島総監」
「三島巡査」
つまり、三島という名が当時から悪名高かったというわけです。
しかも、です。
この三島通庸、薩摩出身で元は【精忠組】のメンバーでした。
要は『西郷どん』の大久保利通らと関係が深いだけでなく、その息子・三島弥彦は、2019年大河ドラマ『いだてん』にも登場(生田斗真さん)。
主役級での登場はありませんが、薩摩出身だけあって近現代においては何処かで誰かと繋がっている鬼県令だったのです。
では実際にどんな人物だったのか。
明治21年(1888年)10月23日が命日である三島通庸の生涯を振り返ってみましょう。

三島通庸/wikipediaより引用
激しき薩摩武士道の宿命に生まれる
通庸は天保六年(1835年)、三島通純の長子として鹿児島城下に生まれました。
土方歳三、福沢諭吉と同年であり、激動の幕末を駆け抜けた志士の一人。
そんな三島家は、代々、鼓(つづみ)をもって島津家に仕えておりました。
こう書くと風雅なイメージがあるかもしれませんね。
しかし三島自身はゴリゴリの薩摩隼人です。
殺人剣の薬丸自顕流を修得し、伊地知正治に兵学を指南。
家は貧しい下級藩士の出でありながら、三島家は極めて真面目な一家でした。
通庸もまた、厳しい冬でも熱心に鼓を拍ち、感心されていたと伝わります。
薩摩自顕流の稽古では、海江田信義と同じ小野道場で学んでいました。

海江田信義/wikipediaより引用
決闘の末に少年を殺害し、切腹に処された弟
少年時代の三島は、不幸な家庭環境でした。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航の年。弟・伝之丞が、郷中仲間の一人から侮辱されたのです。
「やーい、太鼓(てこ)打ち、太鼓打ち」
三島家の家伝である鼓を馬鹿にされたわけです。
薩摩隼人がこんな侮辱を許せるわけもなく、伝之丞は決闘の末に少年を殺害。その処分として、切腹に処されたのでした。
なんとも凄まじい、薩摩武士道です。
父・通純は、我が子の死のせいで精神に異常を来してしまい、やむなく三島は父の幽閉という決断を迫られます。
通庸自身も、郷中仲間に侮辱されたことで一触即発となりました。
彼の所属していた上之園郷仲は、後に人斬り半次郎として恐れられる中村半次郎(桐野利秋)をはじめ、薩摩隼人の中でも特に血気盛んな者が揃っていたのです。

人斬り半次郎こと桐野利秋/Wikipediaより引用
通庸自身のケンカは、なんとかその場は収まったものの、このままでは相手を殺し、弟に続いて切腹という羽目になってしまう。
周囲は慌てました。
そこで通庸が相手と接触しないよう、隅之城で3年間、謹慎生活を送ることになったのです。
あまりに悲しい青春時代でした。
「精忠組」の一員として
黒船が来航してからというもの。
薩摩藩の若手藩士たちは、政治改革の望みを抱き、大久保利通を中心として【精忠組】を結成します。
三島も、これに加入しました。
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西郷や大久保を輩出した薩摩の精忠組(誠忠組)目をかけていたのは久光だった
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そして文久2年(1862年)に起きた、幕末で屈指の惨劇。
【寺田屋事件】にも連座して謹慎処分を受けております。

寺田屋
それだけでなく田中河内介殺害にも関わっていたとされたり。
【鳥羽・伏見の戦い】を皮切りに、薩摩藩兵の一員として東北各地を転戦したり。
武勇での実績を着実に積み上げていきました。
そして明治新政府が成立すると、大久保の同志であった精忠組の仲間たちは、維新の功労者として引き立てられることとなります。
明治4年(1871年)。
六等出仕(奉任官)として、東京府庁入り。

銀座煉瓦街のミニチュア(江戸東京博物館)/photo by Electroliner wikipediaより引用
通庸の、新政府官僚としてのキャリアがスタートしました。
彼はまず、東京銀座の煉瓦街の建築等に関わりました。
鬼県令 「ワッパ騒動」を潰す
通庸の剛腕に惚れ込んだのは、大久保利通でした。
県令としてのキャリアも、その手腕を見込まれたのでしょう。
しかし、事はそう単純な話でもありません。
当時、新政府を仕切っている二大勢力は、薩摩の大久保と長州の伊藤博文でした。
通庸は精忠組以来の大久保派に所属。
伊藤派としては、大久保派の通庸を、中央政界から遠ざけたかったのです。

大久保利通/wikipediaより引用
明治政府の人材活用は、適材適所という観点だけでなく、派閥間のパワーバランスも大きな影響を及ぼしておりました。
そんな通庸の、初県令の赴任地は、酒田県令(後の鶴岡県・現在の山形県)でした。
当時、酒田は【ワッパ騒動】の真っ盛り。
江戸時代でいえば農民一揆であり、住民たちの武装蜂起や抗議行動が頻発していたのです。
酒田のある庄内地方は、江戸時代は庄内藩の領土でした。
戊辰戦争の戦地ともなりましたが、西郷隆盛が寛大な処置を行ったため、酒田県は庄内藩士族がそのまま重用されていました。
そのため、新政府とは異なる独自路線の歩もうとする動きもあり、そうした要素が「ワッパ騒動」に繋がったのです。
通庸は、西郷とは真逆のスタンスです。
幕末の頃は同志であったとはいえ、既に大久保に近い彼は西郷を崇拝などしておりません。
「西郷と、この俺は違うのだ、甘ゆっな」とばかりにワッパ騒動を強引に鎮圧します。
通庸の県令としての功績はそれなりにありますが、どうしても剛腕のワッパ騒動鎮圧ばかりが強調されます。
同地方にとっては心優しき西郷の後、真逆の薩摩人が来たのですから、そりゃあインパクトも強烈だったことでしょう。
山形時代は土木県令
明治9年(1876年)。
山形・鶴岡・置賜の3県が合併され、山形県となりました。
そこで通庸は鶴岡県令から引き続いて山形県令に就任します。
現在に至るまで山形には瀟洒な洋館が残されています。通庸が洋風建築を好んだのです。
さらには山形県の赤い宝石ことサクランボの栽培も通庸が推奨したものでした。
当時、西洋からサクラの木が導入された際、花が美しくないことに日本人が失望し、栽培を辞めてしまうケースが多い最中、通庸は花でなく【実】に目を付け、寒冷な山形こそ適していると判断したのです。
慧眼でした。単なる武芸一辺倒のタイプではなかったんですね。
通庸が課題として痛感したのが、物流の整備です。
江戸時代の前、酒田港は東日本を代表する港であり、ずっと賑わってきました。
が、明治以降、その海運が停滞してしまったのです。
そこで三島の行ったのが大規模な道路工事。
特に福島県に通ずる栗子峠の隧道(トンネル)開削は、今なお名高い功績として伝わっており、大規模な土木工事を断行する通庸の姿を見て、いつしか人は「土木県令」と呼ぶようになります。
山形県令時代の功績は、賞賛に値するものばかり。
ではなぜ“鬼”と呼ばれたのか?
実は、次の福島県令時代にその原因があります。
自由民権運動が盛んな福島県に赴任
1882年(明治15年)、通庸は次の赴任地である福島県に赴きました。
戊辰戦争の爪痕が残り、旧会津藩を擁する福島県。
薩摩出身の県令が赴任した時点で、県民にとっては理不尽な振る舞いに対し怒りを抱いても致し方ないでしょう。
当時の福島県は、中央政府から目を付けられる要素がありました。
【自由民権運動】です。
旧土佐藩の高知県に次いで盛んだったのが、中通りを中心とした福島県だったのです。
そもそも「自由民権運動」はなぜ始まったか?
背景には、政府への不信と不満があります。
明治維新とは、外圧に対抗するために国の体制を作り替えるものではありましたが、その改革は、フランス革命のような人権、民主主義といった思想を伴わなかった――ゆえに、西洋から伝わった思想を知った人々は、明治維新の不備を痛感するようになります。
維新において功績を残しながら、藩閥政治から疎外された土佐出身者が、まずこの運動の担い手となりました。
また、旧三春藩士であった河野広中は、自由民権運動にめざめ、板垣らと連携しながら、福島県で熱心に活動をしておりました。
鬼の通庸が乗り込んできた背景には、このような状況があったのです。
マッド県令、会津三方デスロード建設
明治15年(1882年)。
福島県令として赴任した通庸が着手したのは、会津に道路を開通させることでした。
明治時代以降、政府に逆らったとされた会津地方は開発から取り残され、住民は時代の変化から取り残されていたのです。
山に囲まれ、海からも遠い会津は、まさに日本の奥地といったところ。
道路整備は急務であり、通庸は、会津から三方向に伸びる道路建設を発案します。
◆若松から南の栃木県日光市田島・今市方面(白河街道)へ向かう道
◆西の新潟県東蒲原郡阿賀町津川・新潟方面(越後街道)へ向かう道
◆北の山形県米沢市方面(米沢街道)への三方へ向かう道
アイデアとしては悪くないと思います。
ただ……いかんせん強引でした。
「会津地方六郡下の15歳から60歳までの男女を、2年にわたり月一日人夫として働かせる。それができなければ、一日につき男15銭、女10銭の人夫賃を出せ」
あまりの無茶ぶりに、会津地方の人々は困惑、そして激怒します。
治める金がない家庭からは、鍋や茶碗と言った生活用品が押収され、家が競売にかけられる始末でした。
ただでさえ薩摩に反感を抱いている会津です。
しかも自由民権運動の火もまさに燃え上がっている。
そんなところに地獄の労働を持ち込むのは、ガソリンにマッチを投げ込むかの如き危険な所業であります。
会津の自由民権運動家・佐治幸平が、この道路建設に反対運動を行ったところ、逮捕されてしまいました。
かくして、彼の逮捕に怒った人々が蜂起して、喜多方警察署を襲撃(喜多方事件)、弾圧の手は福島だけでなく東京へと広まり、実に2,000名もの逮捕者が出てしまうのです。
捕らえられた人々には容赦のない拷問が加えられ、北海道の監獄に送り込まれる者も多数いました。
当時、地の果てと呼ばれた北海道の監獄には、凶悪犯が揃っているとされておりましたが、中には、こうした自由民権運動に関わった活動家も含まれていたのです。
三島通庸県政のもと、福島自由党は壊滅状態にまで追い詰められました。
鬼の如き弾圧手段
これほど多くの逮捕者を出した時点で、通庸の所業は「鬼」と呼ばれてもおかしくありません。
実際、彼の発言を知ると、まさしく鬼そのものです。
「それがしが職にあらん限りは、火付け強盗と自由党は、絶対に頭をもたげさせぬ」
「火付け強盗と自由党は管内に1匹もおかぬ」
強面とかそういうレベルじゃありません。
この弾圧のために取った手段が、まだえげつないものでした。
通庸は、旧会津藩士族からなる「会津帝政党」という“御用政党”を結成させました。
会津戦争で辛酸をなめた士族はまだ生活もたちゆかず困窮。
そんな彼らに「恩貸授産金」というエサをちらつかせ、自分たちの味方にしたのです。
会津の人々を分断させる、あまりにえげつない策であります。
そして「会津帝政党」は、清水屋旅館に滞在中の自由民権運動家・宇田成一を強引に逮捕するという暴力事件を起こすのでした。
会津の人々同士が傷つけ合う、あまりにも悲惨な出来事。
かくして通庸の治世で、福島県・中通りの開発は進みます。
しかしその一方、苦難の末に作られた会津三方道路は輸送手段が鉄道にとって変わられ、さして意味のないものとなります。
明治17年(1884年)、通庸は少し南に下って栃木県令に就任しました。
激しい憎悪を買っていた通庸は、自由党員から暗殺されかけます(加波山事件)。
事件に危機感を抱いたのでしょう。
明治20年(1887年)、皇居付近から「危険人物」を排除する事を目的とした保安条例が公布されると、警視総監として即日施行しました。
こうして通庸は、日本に芽生えつつあった自由主義、民主主義の芽を容赦なく壊滅。
明治21年(1888年)、第5代警視総監在任中のまま死去します。
享年54。
★
振り返ってみると、三島通庸とは、実に評価が難しい人物と言わざるを得ません。
山形県や、出身地である鹿児島県では評価されているものの、福島県や栃木県では真逆の最低評価。
とてつもなくパワフルで、手腕も卓越していたことは間違いないでしょう。
このような人物はプラスに振れても、マイナスに振れても、大きな影響を残すものです。
三島通庸は、まさしくその典型でした。
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【参考文献】
幕内満雄『評伝三島通庸―明治新政府で辣腕をふるった内務官僚』(→amazon)
五代夏夫『薩摩秘話』(→amazon)
『国史大辞典』










