『坂本龍馬が暗殺されたとこは?』
『新選組が暴れたのもあったよね』
『薩摩は関係してなかったっけ?』
とまぁ、当時の【旅館名+事件】の組み合わせって、とにかくややこしいですよね。
特に、今回注目する【寺田屋事件】については、同名の事件が2つあるから幕末苦手な人は余計にシンドイ。
本題へ入るまえに整理しておきますと、
◆寺田屋事件(1862年)……薩摩藩内での内輪揉め←今日ここ
◆池田屋事件(1864年)……長州&土佐 vs 新選組
◆寺田屋事件(1866年)……伏見奉行が坂本龍馬を襲撃・龍馬逃げる
◆近江屋事件(1867年)……坂本龍馬が暗殺される
この4つの事件が有名ですが、寺田屋だけが二度出てくるので余計にややこしくなっている印象ですね。
本稿では、文久2年(1862年)4月23日に起きた、最初の寺田屋事件(寺田屋騒動)を見て参ります。
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薩摩の国父 vs 精忠組の過激暴徒
寺田屋事件とは誰が一体何のために起こしたのか?
先に【5W1H】をマトメておきます(後に詳しく解説しますので、サラッと確認でOKです)。
When:文久2年4月23日(1862年5月21日)
Where:京都伏見の旅館・寺田屋
Why:倒幕を時期尚早として【公武合体】を考える島津久光と朝廷が、薩摩【精忠組】の過激暴徒を説得して失敗、討伐に切り替えた
How:実働部隊の「鎮撫使」を派遣し、武力による斬殺および捕縛を遂行する
What:鎮撫使(久光)で1名死亡、1名が重傷、4名軽傷 / 薩摩の過激派志士(有馬)で6名死亡、2名重傷のち切腹、22名投降、処罰者多数
まず、双方の首謀者が
島津久光
vs
有馬新七
とありますように、寺田屋事件とは、主に薩摩藩内での殺し合いです。
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それは「壮絶」の一言に尽きる戦いでした。
なんせ彼ら薩摩藩士たちが【郷中教育】で幼き頃から習う剣術は、実戦を念頭に置いたホンモノの殺人剣です。
西郷や大久保を育てた薩摩の郷中教育とは?泣こかい飛ぼかい泣こよかひっ飛べ!
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平和な江戸時代、他の多くの流派が礼儀などに傾き、剣本来の目的を失っていく中で、薩摩や新選組等は、とにかく本気で人を殺すための特殊部隊のような訓練を受けておりました。
薩摩では主に
【東郷示現流】
【薬丸自顕流】
という二派が伝わっており、薩摩藩士に生まれたのなら、その多くが、いずれかの流派で毎日腕を磨いていたのです。
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そんな仲間同士が斬り合ったらどうなるか?
背筋が凍るとはこのことで、実際に起きたのが寺田屋事件でした。
京都の市街地に火をつける 無謀な計画
久光サイドでも有馬新七サイドでも、戦うメンバーは【精忠組】の者が多く参加しておりました。
精忠組とは、大久保利通(正助・一蔵)が中心となって結成された若手の政治グループであり、それゆえ「同志合戦」とも呼ばれる哀しい戦いであります。
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では、なぜ島津久光は、そんな悲惨な武力行使を実行したのか?
これは久光の冷酷さだけで語れる事件ではありません。
朝廷側から、久光に対し、こんな宣旨がくだされておりました。
薩摩藩士の有馬新七らは、天皇のお膝元である京都の市街地に火をつけ、挙兵を促すという無謀な計画を立てている様子。
遺憾であるから、スグに不穏な暴徒を取り締まれ――という内容です。
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朝廷から命令を下されたとあっては、久光にしても他に選択肢はありません。
過激派藩士たちに対しては、「お前ら、日頃は尊皇と言いながら、朝廷を困らせてなんなんだよ」ぐらいの捨て台詞も吐きたかったでしょうね。
そもそも久光は、若手藩士らが暴発しないよう事前に大久保利通と話を詰め、さらに気を配ってワンチャンスを与えています。
久光は、兵士を率いて上洛する際、こう布告していたのです。
「他藩士や浪人との交際禁止。違反者は容赦なく罪科を申しつける」
さらに、斬り合いの前にも大久保一蔵や海江田信義らを今一度の説得に向かわせたのですが、有馬新七にしてみればこんなスタンスでした。
「真の主君は天皇のみであり、したがって藩主の命令をきかなくてもよい」
もはや、何を言ってもムダ。
斬り合いもやむなし――苦渋の決断はこうしてくだされました。
結果、以下のような犠牲者が出ます。
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