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中岡慎太郎/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

中岡慎太郎30年の生涯をスッキリ解説!龍馬に負けない薩長同盟の功労者に正しい評価を

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近江屋事件で坂本龍馬と共に散った中岡慎太郎

この一件があまりに衝撃的なせいか、中岡は龍馬と常にセットで語られ、ともすれば終生共に行動していた――なんて勘違いをされる方もいるようです。

しかし、薩長を介して考えるとき、両者はまるで別のルートを辿っております。

龍馬が薩摩寄りなら、中岡は長州サイド。
だからこそ薩長同盟の締結にこぎつけることができたともいえ、その点においての功績は龍馬に引けを取るものではありません。

幕末スターが眩しすぎるがために、実像が見えにくくなっている中岡慎太郎。
一体どんな人物なのでしょうか?

 

庄屋の子

中岡は天保9年(1838)4月、土佐国安芸郡北川郷柏木で誕生しました。

父は、大庄屋役勤仕中岡小伝次、母は小伝次の後妻・ウシ(牛)。
慎太郎の名が示す通り、彼は長男です。中岡家は庄屋としては、25石1斗3升6勺を給されていました。

中岡慎太郎の生家/photo  by Yanajin wikipediaより引用

庄屋というのは、名主(なぬし)・肝煎(きもいり)とも呼ばれまして。郡代・代官で村の人々を束ねる役目のことです。
中岡家に伝わる信頼のできる系図はないようで、祖先に関しては出自がはっきりしない部分があります。

これは相楽総三、白石正一郎、松尾多勢子あたりにも言えることですが、幕末というのは必ずしも武士だけが活動した時代ではありません。
裕福な家庭から、学問を学び国事へと参加する――そんなルートがありました。

中岡も、そうした一人。
成長して学びの道へと踏み込み、安政元年(1854年)には間崎哲馬に従って経史を学び始めました。

彼の活動は、より活発的になっていきます。

翌年、武市半平太(武市瑞山)の道場に入門して剣術修行を開始。
当時の剣術修行とは、ただ武道を学ぶだけではなく、精神修養や教養を身につける意味もありました。

武市半平太(武市瑞山)/wikipediaより引用

安政4年(1857年)には、野友村庄屋利岡彦次郎の長女・かね(兼)を娶ります。
縁談を決めた親としては、身を固めて活動をセーブした欲しかったのかもしれませんが……激動の幕末ド真ん中、そうはなりません。

文久元年(1861年)、武市が結成した土佐勤皇党に加盟し、国が大きく動き出すと、中岡も志士として活動を展開するのでした。

 

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土佐勤王党

さて、この土佐勤王党。
【尊皇攘夷&世直し】を誓うという性格だけではなく、師の武市とその弟子による組織でありました。

武市邸と道場跡の碑/photo by アラツク wikipediaより引用

当時は、長州藩の尊皇攘夷派と並び、過激で先鋭的である組織であり、目的のためには手段を選ばぬところもあったのです。

例えば文久2年(1862年)の吉田東洋暗殺はその最たるもの。
坂本龍馬もこうした傾向にすぐに嫌気がさし始めています。

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中岡は土佐勤王党の一員として、熱心に活動しています。
文久2年(1862年)には、郷士・足軽・庄屋を中心とする「五十人組」の伍長として出府。当時、尊皇攘夷派をリードしていた長州藩の久坂玄瑞と共に水戸へ向かい、松代藩の佐久間象山も訪問しています。

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慎太郎が京都に到着すると、藩主の山内容堂も上洛。
中岡は「御旅中御雇徒目付」に任じられ、他藩との応接にあたることになります。しかしその期間は短く、容堂に従って帰国したあと、職を解かれています。

天皇のお膝元である京都において、テロ行為すら辞さない尊皇攘夷派は、次第に他ならぬ孝明天皇自身の憎しみを買うことになるから皮肉なものです。

彼らは過激なテロで天誅を起こすことこそ、山内容堂への忠誠心だと信じていました。
容堂からすればとんでもない話で、これがのちの悲劇へとつながります。

山内容堂も、そりゃキレますって/wikipediaより引用

孝明天皇は攘夷を支持していました。
と同時に幕府と歩調を合わせる路線でもあり(公武合体派)、過激なテロを繰り返すような輩は嫌で嫌で仕方なかったのです。

そうした状況を受けて起きたのが「八月十八日の政変」です。
三条実美らの公家や長州を京都から追い出したもので、尊皇攘夷派には大打撃、怒りカンカンになった容堂は土佐勤王党へ容赦ない弾圧を始めます。

同志が捕縛される中、中岡は脱藩して長州藩へと脱出、潜伏することになります。
元治元年(1864年)には、薩摩藩の中村半次郎(のちの桐野利秋)とも知遇を得ることになりました。

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更には長州が御所に銃機器をぶっ放し、会津と薩摩に追い返された「禁門の変」にも、中岡は遊撃隊として参加しています。

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長州は敗北し、自身も負傷を負った中岡は、どうにか長州領内の三田尻にまで落ち延び、そこを本拠として活動を再開。
第一次長州征討中には「禁門の変」で自刃した真木和泉に代わって忠勇隊総督となりました。

三条実美らの近侍としても務めています。

 

薩長同盟、そして倒幕へ

慶応元年(1865年)正月。
第一次長州征討が終結しました。

幕臣たちがのちに、
「あのとき長州の息の根を止めていれば!」
と後悔したように、この決着は不完全なものでした。

長州藩主の父子が責任を問われるようなことはなく、三人の家老が切腹でおしまい。

この処分を受けて、中岡は近侍していた三条実美らを連れ、筑前浪士・中村円太とともに、太宰府へ向かいます。

中岡はそこで、西郷隆盛、筑前藩勤王派・月形洗蔵らと話し合いの場を持ちます。

月形は西郷をして、
「志気英果なる、筑前においては無双といふべし」
と言わしめた人物です。

筑前藩と対馬藩の勤王派は、薩長連合工作を行っておりました。
ここに、薩摩藩と懇意である土佐藩士・坂本竜馬も合流します。

しかしそのタイミングで、筑前藩の佐幕派が巻き返しをはかった「乙丑の獄」が発生。
月形はじめ勤王派は、政争の結果息の根を止められてしまいます。

このとき流刑となった人物に、高杉晋作を看取ったことで知られている、野村望東尼もおります。

野村望東尼(のむらもとに)/wikipediaより引用

筑前藩が壊滅した以上、土佐藩士である中岡と坂本が、薩長同盟の立役者となるべく動くほかありません。
彼等の奔走の結果、薩摩藩の西郷、そして長州藩の木戸孝允らを説得し、見事に、慶応2年(1866年)正月、薩長同盟が成立します。

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もっとも中岡と坂本が優れていたため、成立したと言う単純なものでもありません。
・「参与会議」の挫折
島津久光徳川慶喜への失望
・一会桑政権への対抗意識等
背景には、様々な要素が複雑に絡み合っておりました。

幕末における各藩、各志士たちの立場がコロコロ変わって後世の我々も頭が混乱しますが、当時も誰一人として正確に先を読めた者はいないでしょう。

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実際、このあと、政治状況は次々に変化してゆきます。

「やらないほうがマシだった」
そんな風に後世酷評される第二次長州征討は、幕府にとって散々な結果に終わりました。

この結果を受けて、土佐藩はようやく中岡の功績を見直し。
慶応3年(1867年)に脱藩の罪が許されました。

このあと中岡は、乾退助(板垣退助)を西郷に紹介し、「薩土密約(=薩摩藩と土佐藩による倒幕の密約)」を交わします。

こうした中岡の活動により、土佐藩は「薩長土肥」の一角に食い込んだわけです。
もっとも明治政府成立以降は、そこからはじきだされてしまうわけですが。

 

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武力倒幕を目指す最中に近江屋事件

先程、幕末はわかりづらい――と申しましたが、中岡のスタンスについても中々読み取りづらいものがあります。

慶応2年(1866年)の時点で、彼は
「窃(ひそ)かに知己に示す論」
において、大政奉還を支持しています。

しかし、慶応3年(1867年)に坂本が幕臣・大久保一翁(忠寛)・勝海舟らの大政奉還論を実現しようとした際には反対しています。

中岡と坂本は同じ事件で亡くなったこともありますし、功績も重なることが多い人物です。
ただし、必ずしも思想が一致していたとはいえないようです。

武力で倒幕すべきだと考えていたのが中岡です。
岩倉具視・三条実美・西郷隆盛らと連携しつつ、慶応3年(1867年)7月に「陸援隊」を組織。
坂本龍馬の海援隊と似た名前ですが、実態はまるで別物でした。

土佐藩遊軍の認知を受けた、武力倒幕を目指す隊であり、中岡はその隊長となったわけです。

中尾は武力倒幕を目指し活動をします。
もしも彼がもっと長生きできたらば、戊辰戦争では先陣を切っていたかもしれません。

しかし、運命がそれを許しませんでした。

大政奉還後がなったあとの運命の11月15日。
近江屋で惨劇は起きました。

坂本とともに、幕府見廻組の佐々木唯三郎らによって襲撃され、重傷を負います。
そして、その二日後の17日に絶命するのでした。
享年30。

中岡慎太郎死す!坂本竜馬暗殺の黒幕は闇に葬られたか……

 

もっと正しい評価を

薩長同盟といえば、坂本龍馬。
不思議なほどに中岡の名前は取り上げられません。

しかし、薩摩側の玄関口が坂本ならば、長州側は中岡です。
余りに不当な扱いであると言わざるを得ません。

彼を主役としたフィクションが少ないこと。
土佐勤王党の持つ暗い側面。
戊辰戦争による武力制圧に肯定的であったこと。

こうした負の要素だけでなく、龍馬と比較してどうしても暗い雰囲気があるからでしょうか。

しかし、歴史はイメージではなく、その人が成し遂げたことで評価されるべきです。
彼の生涯に光が当たることを願って止みません。

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文:小檜山青

【参考文献】
中岡慎太郎』松岡司
国史大辞典



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