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【中岡慎太郎】
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武力倒幕を目指す最中に近江屋事件
先程、幕末はわかりづらい――と申しましたが、中岡のスタンスについても中々読み取りづらいものがあります。
慶応2年(1866年)の時点で、彼は
「窃(ひそ)かに知己に示す論」
において、大政奉還を支持しています。
しかし、慶応3年(1867年)に坂本が幕臣・大久保一翁(忠寛)・勝海舟らの大政奉還論を実現しようとした際には反対しています。
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中岡と坂本は同じ事件で亡くなったこともありますし、功績も重なることが多い人物です。
ただし、必ずしも思想が一致していたとはいえないようです。
武力で倒幕すべきだと考えていたのが中岡です。
岩倉具視・三条実美・西郷隆盛らと連携しつつ、慶応3年(1867年)7月に「陸援隊」を組織。
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坂本龍馬の海援隊と似た名前ですが、実態はまるで別物でした。土佐藩遊軍の認知を受けた、武力倒幕を目指す隊であり、中岡はその隊長となったわけです。
中岡は武力倒幕を目指し活動をします。
もしも彼がもっと長生きできたらば、戊辰戦争では先陣を切っていたかもしれません。
しかし、運命がそれを許しませんでした。
大政奉還後がなったあとの運命の11月15日。
近江屋で惨劇は起きました。
坂本とともに、幕府見廻組の佐々木唯三郎らによって襲撃され、重傷を負います。
そして、その二日後の17日に絶命するのでした。
享年30。
もっと正しい評価を
薩長同盟といえば、坂本龍馬。
不思議なほどに中岡の名前は取り上げられません。
しかし、薩摩側の玄関口が坂本ならば、長州側は中岡です。
余りに不当な扱いであると言わざるを得ません。
彼を主役としたフィクションが少ないこと。
土佐勤王党の持つ暗い側面。
戊辰戦争による武力制圧に肯定的であったこと。
こうした負の要素だけでなく、龍馬と比較してどうしても暗い雰囲気があるからでしょうか。
しかし、歴史はイメージではなく、その人が成し遂げたことで評価されるべきです。
彼の生涯に光が当たることを願って止みません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
松岡司『中岡慎太郎』(→amazon)
『国史大辞典』