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【中岡慎太郎】
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八月十八日の政変~追い込まれていく長州
そうした状況を受けて起きたのが【八月十八日の政変】です。
三条実美らの公家や長州を京都から追い出したもので、尊皇攘夷派には大打撃、怒りカンカンになった山内容堂は土佐勤王党へ容赦ない弾圧を始めます。
同志が捕縛される中、中岡は脱藩して長州藩へと脱出、潜伏することになります。
元治元年(1864年)には、薩摩藩の中村半次郎(のちの桐野利秋)とも知遇を得ることになりました。
更には長州が御所に銃機器をぶっ放し、会津と薩摩に追い返された【禁門の変】にも、中岡は遊撃隊として参加しています。
長州は敗北し、自身も負傷を負った中岡は、どうにか長州領内の三田尻にまで落ち延び、そこを本拠として活動を再開。
第一次【長州征討】中には禁門の変で自刃した真木和泉に代わって忠勇隊総督となりました。
三条実美らの近侍としても務めています。
薩長同盟、そして倒幕へ
慶応元年(1865年)正月。
第一次長州征討が終結しました。
幕臣たちが後に「あのとき長州の息の根を止めていれば!」と後悔したように、この決着は不完全なものでした。
長州藩主の父子が責任を問われるようなことはなく、三人の家老が切腹でおしまい。
この処分を受けて、中岡は近侍していた三条実美らを連れ、筑前浪士・中村円太とともに、太宰府へ向かいます。
中岡はそこで、西郷隆盛、筑前藩勤王派・月形洗蔵らと話し合いの場を持ちます。
月形は西郷をして「志気英果なる、筑前においては無双といふべし」と言わしめた人物です。
筑前藩と対馬藩の勤王派は、薩長連合工作を行っておりました。
ここに、薩摩藩と懇意である土佐藩士・坂本竜馬も合流します。
しかしそのタイミングで、筑前藩の佐幕派が巻き返しをはかった【乙丑の獄】が発生。
月形はじめ勤王派は、政争の結果息の根を止められてしまいます。
このとき流刑となった人物に、高杉晋作を看取ったことで知られている、野村望東尼もおります。
筑前藩が壊滅した以上、土佐藩士である中岡と坂本が、薩長同盟の立役者となるべく動くほかありません。
彼等の奔走の結果、薩摩藩の西郷、そして長州藩の木戸孝允らを説得し、見事に、慶応2年(1866年)正月、薩長同盟が成立しました。
もっとも中岡と坂本が優れていたため、成立したと言う単純なものでもありません。
背景には、以下のような要素が複雑に絡み合っておりました。
幕末における各藩、各志士たちの立場は、実にコロコロ変わって後世の我々も頭が混乱してしまいます。
当時も、誰一人として正確に先を読めた者はいないでしょう。
実際、このあと、政治状況は次々に変化してゆきます。
「やらないほうがマシだった」
そんな風に後世酷評される第二次長州征討は、幕府にとって散々な結果に終わりました。
この結果を受けて、土佐藩はようやく中岡の功績を見直し、慶応3年(1867年)に脱藩の罪が許されました。
中岡は、乾退助(板垣退助)を西郷に紹介し、「薩土密約(=薩摩藩と土佐藩による倒幕の密約)」を交わします。
こうした中岡の活動により、土佐藩は「薩長土肥」の一角に食い込んだわけです。
もっとも明治政府成立以降は、そこからはじきだされてしまうわけですが。
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