近江屋事件で坂本龍馬と共に襲われ、慶応3年(1867年)11月17日に亡くなった中岡慎太郎。
この一件があまりに衝撃的なせいか、中岡は龍馬と常にセットで語られ、ともすれば終生共に行動していた――なんて勘違いをされる方もいるようです。
しかし、薩長を介して考えるとき、両者はまるで別のルートを辿っております。
龍馬が薩摩寄りなら、中岡は長州サイド。
だからこそ薩長同盟の締結にこぎつけることができたともいえ、その点においての功績は龍馬に引けを取るものではありません。
幕末スターが眩しすぎるがために、実像が見えにくくなっている中岡慎太郎。
一体どんな人物なのでしょうか?
庄屋の子
中岡は天保9年(1838)4月、土佐国安芸郡北川郷柏木で誕生しました。
父は、大庄屋役勤仕中岡小伝次、母は小伝次の後妻・ウシ(牛)。
慎太郎の名が示す通り、彼は長男です。中岡家は庄屋として、25石1斗3升6勺を給されていました。
庄屋というのは、名主(なぬし)・肝煎(きもいり)とも呼ばれます。郡代・代官で村の人々を束ねる役目のことですね。
中岡家に伝わる信頼のできる系図はないようで、祖先に関しては出自がはっきりしない部分があります。
これは相楽総三、白石正一郎、松尾多勢子あたりにも言えることですが、幕末というのは必ずしも武士だけが活動した時代ではありません。
裕福な家庭から、学問を学び国事へと参加する――そんなルートがありました。
中岡も、そうした一人。
成長して学びの道へと踏み込み、安政元年(1854年)には間崎哲馬に従って経史を学び始めました。
彼の活動は、より活発的になっていきます。
翌年、武市半平太(武市瑞山)の道場に入門して剣術修行を開始。
当時の剣術修行とは、ただ武道を学ぶだけではなく、精神修養や教養を身につける意味もありました。
安政4年(1857年)には、野友村庄屋利岡彦次郎の長女・かね(兼)を娶ります。
縁談を決めた親としては、身を固めて活動をセーブした欲しかったのかもしれませんが……激動の幕末ド真ん中、そうはなりません。
文久元年(1861年)、武市が結成した土佐勤皇党に加盟し、国が大きく動き出すと、中岡も志士として活動を展開するのでした。
土佐勤王党
さて、この土佐勤王党。
【尊皇攘夷&世直し】を誓うという性格だけではなく、師の武市とその弟子による組織でありました。
当時は、長州藩の尊皇攘夷派と並び、過激で先鋭的である組織であり、目的のためには手段を選ばぬところもあったのです。
例えば文久2年(1862年)の吉田東洋暗殺はその最たるもの。
坂本龍馬もこうした傾向にすぐに嫌気がさし始めています。
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中岡は土佐勤王党の一員として、熱心に活動しています。
文久2年(1862年)には、郷士・足軽・庄屋を中心とする「五十人組」の伍長として出府。
当時、尊皇攘夷派をリードしていた長州藩の久坂玄瑞と共に水戸へ向かい、松代藩の佐久間象山も訪問しています。
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慎太郎が京都に到着すると、藩主の山内容堂も上洛。
中岡は「御旅中御雇徒目付」に任じられ、他藩との応接にあたることになります。
しかしその期間は短く、容堂に従って帰国したあと、職を解かれています。
天皇のお膝元である京都において、テロ行為すら辞さない尊皇攘夷派は、次第に他ならぬ孝明天皇自身の憎しみを買うことになるから皮肉なものです。
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彼らは過激なテロで天誅を起こすことこそ、山内容堂への忠誠心だと信じていました。
容堂からすればとんでもない話で、これがのちの悲劇へとつながります。
孝明天皇は攘夷を支持していました。
と同時に幕府と歩調を合わせる路線でもあり(公武合体派)、過激なテロを繰り返すような輩は嫌で嫌で仕方なかったのです。
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