新門辰五郎/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新

新門辰五郎と芳~徳川慶喜に愛された火消しと娘 マンガのように爽快な生涯

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家康以来の「金扇馬印」を守る

辰五郞は、覚王院義観の紹介で、勝の主君にあたる一橋慶喜とも知り合いになります。

慶喜は辰五郞を大いに気に入り、その娘・を側室に迎えることにしました。
しかも、慶喜は気安く「ジジイ」と呼びかけ、側に寄ることすら許すほどに。

一方の辰五郞も頭脳明晰な慶喜の魅力に惚れ込みむのです。

徳川慶喜(一橋慶喜)/wikipediaより引用

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そして文久3年(1863年)、大一番を迎えます。

辰五郞は慶喜に付き従い、子分300名を率いて上洛したのです。
すでに70を過ぎているのに洒脱なその姿は、上方の人々を驚かせました。

辰五郞は京都と大阪に豪華な別宅を構え、妾を住まわせます。
京都・大阪でも火消しを任され、ますます名もあげ、さらに京都では、子分たちに梯子乗りを披露させ、人々をあっと驚かせたこともあったとか。

三代目歌川広重火消し出初式/wikipediaより引用

しかし慶応4年(1868年)、慶喜が鳥羽・伏見の戦いで敗北すると、辰五郞も共に大坂へ逃れました。
このとき、慶喜はとんでもない忘れ物をしてしまいます。

家康以来の「金扇馬印」です。

馬印とは、合戦場で大将の存在を高らかに宣言するもの。
大坂夏の陣では真田信繁真田幸村)が徳川本陣へ突撃して、命からがら家康が逃げ出し、その際、馬印が倒れてしまったという話がありますが、要は、この馬印を敵に奪われたりでもすれば徳川家の誇りは台無しです。

生死を賭してこれを取り戻した辰五郎は、その後、馬印を立てて東海道を江戸まで戻ります。

一方、慶喜と辰五郞の娘・芳らは、軍艦「開陽丸」で江戸まで戻りました。
軍艦に妾を連れて来た慶喜は家臣たちを呆れさせた、と伝わります。

 

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幻の江戸焦土作戦

江戸に戻った辰五郞を待ち構えていたのは、勝海舟でした。

彼のような火消しの親分、侠客、鳶職、博徒、非人頭らのアウトローたちに対し、こんな計画が持ちかけられます。

「俺ァこれから、薩摩の西郷隆盛と話し合う。もしもこの話し合いが決裂しちまったら、おめえさんらで江戸を火の海にしちまってくれ」

勝の脳裏にあったのは、ナポレオンを大敗させた1812年のロシア戦役でした。
モスクワを焦土にすることで、敵にも大打撃を与えたのです。

勝自らそう頼まれて、彼らは張り切りました。

しかし勝と西郷隆盛の間で話がまとまり、焦土作戦は幻と終わりました。

無血開城という歴史の影で、火消したちがうごめいていたのです。

 

二万両を守って駿府へ

幻の焦土作戦は不発に終わりましたが、辰五郞の役目は終わりません。
上野・寛永寺~水戸~駿府と、各地を転々とする慶喜の居場所を警護し、防火につとめていたのです。

慶喜が駿府に向かう時、辰五郞と子分たちは二万両という大金を守り抜きました。
馬印の次は、金を守ったというわけです。
隠居後の慶喜が悠々自適の暮らしを送れたのは、辰五郞の警護の成果でもあるかもしれません。

明治になると、慶喜は新村信と中根幸以外の妾は暇を出しました。
芳もこのとき、家に戻されます。

慶喜に付き従い、しばらくは駿府で暮らした辰五郞も、やがて江戸へ戻りました。

そして明治8年(1875年)没、享年75(80以上だったという説も)。
住み慣れた浅草で亡くなりました。

辞世の句は、
「思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとしる) ふっくりぼぼに どぶろくの味」。
意味は各自で、お調べください。
最後まで人をくった江戸の侠客らしい人物でした。

文:小檜山青




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【参考文献】
国史大辞典
幕末維新なるほど人物事典―100人のエピソードで激動の時代がよくわかる (PHP文庫)

 



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