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【新門辰五郎】
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幻の江戸焦土作戦
江戸に戻った辰五郞を待ち構えていたのは、勝海舟でした。
彼のような火消しの親分、侠客、鳶職、博徒、非人頭らのアウトローたちに対し、こんな計画が持ちかけられます。
「俺ァこれから、薩摩の西郷隆盛と話し合う。もしもこの話し合いが決裂しちまったら、おめえさんらで江戸を火の海にしちまってくれ」
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勝の脳裏にあったのは、ナポレオンを大敗させた1812年のロシア戦役でした。
モスクワを焦土にすることで、敵にも大打撃を与えたのです。
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勝自らそう頼まれて、彼らは張り切りました。
しかし勝と西郷隆盛の間で話がまとまり、焦土作戦は幻と終わりました。
無血開城という歴史の影で、火消したちがうごめいていたのです。
二万両を守って駿府へ
幻の焦土作戦は不発に終わりましたが、辰五郞の役目は終わりません。
上野・寛永寺~水戸~駿府と、各地を転々とする慶喜の居場所を警護し、防火につとめていたのです。
慶喜が駿府に向かう時、辰五郞と子分たちは二万両という大金を守り抜きました。馬印の次は、金を守ったというわけです。
隠居後の慶喜が悠々自適の暮らしを送れたのは、辰五郞の警護の成果でもあるかもしれません。
明治になると、慶喜は新村信と中根幸以外の妾は暇を出しました。芳もこのとき、家に戻されます。
慶喜に付き従い、しばらくは駿府で暮らした辰五郞も、やがて江戸へ戻りました。
そして明治8年(1875年)没、享年75(80以上だったという説も)。住み慣れた浅草で亡くなりました。
辞世の句は「思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとしる) ふっくりぼぼに どぶろくの味」。
最後まで人をくった江戸の侠客らしい人物でした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
国史大辞典
泉秀樹『幕末維新なるほど人物事典』(→amazon)
ほか