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【新門辰五郎】
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浅草の大侠客
大名火消し相手に一歩も退かない。
牢の火災を消し止め、奉行すら感心させる。
江戸っ子は、そんな辰五郞にぞっこん惚れてしまいます。スターのような火消しの中でも、スーパースターとなったのです。
この男ぶりに惚れ込んだのは、何も火消し仲間や町人だけではありません。
上野大慈院別当・覚王院義観までもが、辰五郞の度胸に惚れ込み、浅草寺付近の取り締まりを依頼したのです。
これが何とも、うまみのある役目でして。
現在も雷門から浅草寺にかけて、仲見世にずらりと店が並んでいます。
江戸時代もそうでした。
そんな繁華街の取締役になりますと、役得として、仲見世で商売をしている香具師(やし)、的屋、大道芸人から、寺銭(カスリ・ショバ代)を取れたのです。
辰五郞がこの寺銭を押し入れに毎日放り込んでいたところ、床が抜けるほど溜まりました。才覚のある辰五郞は、さらには寄席まで経営し、ますます懐がうるおったのです。
ショバ代で儲ける男というと、現代人ならば汚い奴だと思いそうです。
しかし、当時は逆。
「やっぱり辰五郞の親分は流石だねえ」
「あの人は浅草の自慢さぁ!」
と、評判は上々。取り締まるべきところできっちりと目を光らせる――そんな有能ぶりを称賛されたのです。
しかも、彼は寛大で器の大きな男です。火事場での喧嘩では一歩も退かない辰五郞ですが、普段は温厚で温和でした。
部下たちはそんな彼によく従い、言いつけを守ったのです。浅草の治安のためにも、辰五郞はまさにうってつけの男でした。
辰五郞は浅草寺に新たに作られた門の警備も任されました。そのときから「新門」(“しんもん”が一般的ですが、本人は“あらかど”と読んでいました)と名乗るようになります。
新門と名乗るようになってから、辰五郞の名は江戸では知らない者がいないほど広まり、子分もどんどんと増えました。
町人とも交流のあった勝海舟は、江戸の火消しとも親しくつきあいました。
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辰五郞もその一人です。
粋な江戸っ子同士、気があう部分があったのでしょう。
家康以来の「金扇馬印」を守る
辰五郞は、覚王院義観の紹介で、勝の主君にあたる一橋慶喜(後の徳川慶喜)とも知り合いになります。
慶喜は辰五郞を大いに気に入り、その娘・芳を側室に迎えることにしました。
しかも、慶喜は気安く「ジジイ」と呼びかけ、側に寄ることすら許すほどに。
一方の辰五郞も頭脳明晰な慶喜の魅力に惚れ込みむのです。
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そして文久3年(1863年)、大一番を迎えます。
辰五郞は慶喜に付き従い、子分300名を率いて上洛したのです。
すでに70を過ぎているのに洒脱なその姿は、上方の人々を驚かせました。
辰五郞は京都と大阪に豪華な別宅を構え、妾を住まわせます。京都・大阪でも火消しを任され、ますます名もあげ、さらに京都では、子分たちに梯子乗りを披露させ、人々をあっと驚かせたこともあったとか。
しかし慶応4年(1868年)、慶喜が【鳥羽・伏見の戦い】で敗北すると、辰五郞も共に大坂へ逃れました。
このとき、慶喜はとんでもない忘れ物をしてしまいます。
家康以来の「金扇馬印」です。
馬印とは、合戦場で大将の存在を高らかに宣言するもの。
大坂夏の陣では真田信繁(真田幸村)が徳川本陣へ突撃して、命からがら家康が逃げ出し、その際、馬印が倒れてしまったという話がありますが、要は、この馬印を敵に奪われたりでもすれば徳川家の誇りは台無しです。
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生死を賭してこれを取り戻した辰五郎は、その後、馬印を立てて東海道を江戸まで戻ります。
一方、慶喜と辰五郞の娘・芳らは、軍艦「開陽丸」で江戸まで戻りました。軍艦に妾を連れて来た慶喜は家臣たちを呆れさせた、と伝わります。
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