「仲良し」というと、パッと思いつくのは「いつも一緒にいて笑いあっている」といった感じの光景ですよね。
もちろんそれも間違いではありませんが、仲の良さの尺度はそれだけではありません。
最たる例は、婚約のまま生涯直接会うことがなかったにもかかわらず、文通で心を通わせていたと思われる織田信忠と松姫でしょうか。
そこまでではないにせよ、今回は幕末の有名人と、その妻の関係を想像してみたいと思います。
明治二十五年(1892年)7月20日、新選組・近藤勇の妻だった松井つねが亡くなりました。
当時はまだ法律的に夫婦同姓が定められていませんでしたので、彼女の名字は「松井」のほうが正しいかと思われます。
他の歴史上の人物でも、法律が変わるまでは夫婦別姓で書いていますしね。
道場の連中がうつつを抜かさず、浮気もシない
さて、彼女について一番有名な話といえば
「ブサイクだったから、近藤勇が『道場の連中がうつつを抜かさなくて済むし、浮気しない』と判断して妻に選ばれた」
というものでしょう。
あんまりにもあんまりな評価です。
なんとなく吉川元春夫妻を彷彿とさせますが、もしかしたらこれは顔がアレというのではなくて、性格がキツかったからかもしれません。
というのも、つねの実家である松井家は、御三卿のひとつである清水徳川家の家臣だったからです。
近藤よりずっと由緒正しい家柄なわけで、幼い頃からきっちり礼儀作法その他を教えられ、物の考え方も備わっていたことでしょう。
実際、つねには気の強さというか、芯の強さをうかがわせる細かなエピソードがいくつかありますし、彼女の行動もそれを示唆しています。
つねが近藤と結婚したのは23歳のときなのですけれども、それから二年経って長女・たまを産んだとき、近藤は既に上洛していました。
つまり、実質的な結婚生活はそれ以下なわけです。
義兄である近藤の兄には愚痴をこぼすこともあったようですが、ただの不美人であれば、女手一つで娘を育てながら夫の留守を待つ……ということはできないでしょう。
おそらくは近藤も「不美人だから」といってつねをないがしろにはしなかったでしょうし、一緒に生活しているうちにお互いの良いところも見えてきたのではないでしょうか。
妻子には二度と会わない覚悟で出かけたが
つねはずっと地元で夫の帰りを待っていたと思われます。
が、おそらく再会することはなかったでしょうね。
次に近藤が地元……というか関東にやってきたのは、戊辰戦争で佐幕派がことごとく負けていた頃です。
近藤たちは海路で上方から江戸に戻り、甲州勝沼の戦いへ向かっていますが、そんな切羽詰まっているときに地元で妻子の顔を見ているヒマがあったかというと……。
一応、江戸から見れば近藤の地元は勝沼との間ですけれども、兵の手前やりにくかったでしょうし。手紙くらいはこっそり出せたかもしれませんが。
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近藤は江戸への船上で、旗本の榎本道章に「二度と妻子には会わない覚悟でいたのですが、今こうして帰ることになると嬉しく思う。お恥ずかしい話ですが」と話していたそうです。
できれば会いに行きたかったでしょうね。
泣ける(´;ω;`)ブワッ
このとき、近藤はつねへの土産として、銀の指輪を持っていたとか。
残念ながら現存していないので、無事つねの手に渡ったのかどうかも不明です。
つねが持っていたとしたら、たまや近藤の実家・宮川家が保存していたでしょうし、近藤が捕まったときに取り上げられてしまったんですかね……。
血筋は途絶えてしまったか……
近藤が流山で捕えられ、斬首に処された後、つねはたまを連れてお寺に身を潜めていたといわれています。
その後、近藤の実家である宮川家を頼って生涯を終えたとか。
もしも近藤への愛想が尽きていたら、とっとと再婚してラクな生活を選んでいたでしょう。
再婚を勧められて思い詰め、自殺を図ったことも複数回あったそうですから、やはり近藤への愛や妻としてのプライドはあったと思いたいところです。
娘・たまはおそらく父親のことを覚えていなかったでしょうけれども、それでかえって引け目を感じずに済んだかもしれません。
たまはいとこである宮川勇五郎と結婚し、長男・久太郎を産んで三年後、若くして亡くなりました。
その久太郎は日露戦争で大陸に渡り、中国で戦病死しています。
久太郎には妻子がなかったため、近藤勇の嫡流の子孫は絶えてしまいました。
近藤には京都時代に少なくとも駒野とお孝、そしておよしという三人の妾がおり、一人ずつ子供を産んでいるので、その系統が続いている可能性はあります。
といっても駒野の息子は僧侶になっていますので、おそらくそこで途絶えているでしょうね。
およしの息子については不明ですが、お孝の娘・お勇が息子三人に恵まれているため、続いているとすればそちらかと。
”子授けの神”として崇められてもいい気がするほど
そのうち「実は私、近藤勇の末裔なんです」と名乗り出る人が出てくるのかもしれませんね。
DNA鑑定しようにも、そもそも処刑された後の近藤の首や胴体が行方不明なので、確定させられないでしょうけれども。
ちなみに、近藤が京都にいたのは五年弱。
その短期間、しかもあの幕末の動乱の中で複数の女性に手を出しているのもスゴイですし、命中率がヤバイ(小並感)ですね。
あれだけモテた土方歳三には直系の子孫はいないといわれていますし、明治時代まで生き延びた斎藤一や永倉新八にしても、子沢山というほどではありません。
近藤は”子授けの神”として崇められてもいい気がします(言い過ぎ?)
もしも近藤が逃げ延び、生き延びていたら、今頃いったい何人の子孫がいたのでしょうね。
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長月 七紀・記
【参考】
『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon link)
松井つね/Wikipedia
近藤たま/Wikipedia
近藤久太郎/Wikipedia
近藤勇/Wikipedia