幕末人気ランキングがあれば、今も将来も、ずっと1位に輝き続けそうな坂本龍馬。
その魅力はなんと言っても【自由な気風】にあると思われますが、同時に彼の人気を陰ながら支えているのが
龍馬の妻・おりょう(楢崎龍)
の存在ではないでしょうか?
敵の襲撃を察知して無事に龍馬を逃した機転。
人斬り半次郎相手にも一歩も引かなかった肝っ玉の強さ。
そうかと思ったら龍馬と一緒に「薩摩ハネムーン」を楽しむ女性らしいお話も現代人の胸を打つ――。
明治39年(1906年)1月15日はそんな彼女の命日。
今回は楢崎龍(以降・おりょう)の生涯を見ていきたいと思います。
🚢 幕末・維新|黒船来航から戊辰戦争まで 激動の時代を人物・事件でわかりやすく解説
生まれは京都 曽祖父は長州藩士
龍馬の妻となるおりょう。
その生まれは、尊皇攘夷派と縁の深いものでした。
おりょうの曾祖父は長州藩士です。
ところが何らかの落ち度で除籍され、京都に流れてきたのです。
父である楢崎将作は、久邇宮朝彦親王(中川宮)の侍医をつとめたこともあるインテリでした。

久邇宮朝彦親王/wikipediaより引用
皇族や公家とも交流があり、一橋派の活動家である頼三樹三郎や池内大学とも交際がありました。
そのため、安政5年(1858年)の【安政の大獄】で捕縛されてしまいます。
翌年には釈放されたものの、牢獄での暮らしがたたったのか、文久2年(1862年)に亡くなってしまいました。
おりょうの母・貞と遺児たちは残され、楢崎家の人々は困窮しておりました。その弱みにつけこんで、おりょうの妹が大阪の遊郭に売り飛ばされそうになります。
おりょうは遊郭に乗り込むと、絡んできた男を殴り飛ばし、火鉢を投げつけ、妹を取り返して京都まで戻って来ます。
気が強く、大胆な性格だったのですね。
龍馬は、この武勇伝を聞いて「面白い女だ!」と大喜びしたとか。
心細く貞が暮らしていると、その友人が浪人たちの面倒を見る女性を探している、と頼んで来ました。
勤王医者の妻ですから、貞は危険を伴うこの役目を快諾しました。
龍馬とおりょう 出会いは?
浪人たちの世話をする中で、坂本龍馬と出会った貞。
貞が身の上話をすると、龍馬は同情しました。
「おまさんも苦労をしちゅーんじゃのぉ。おまさんの娘さんを、うちの嫁にくれんか」
母である貞は、そろそろおりょうに夫を持たせようと思っていました。
どうせ夫にするならば、龍馬こそぴったり、ありがたい話です。おりょうも龍馬とは面識があり、好印象を抱いていたのでしょう。こうして、話は進んでゆきました。
両者は運命の相手でもあったのかもしれません。
同じ「龍」の字が名前に含まれていることを知り、これは面白いと龍馬は語ったとされています。妹を取り戻した武勇伝も、いかにも彼好みです。
時は元治元年(1864年)夏。
この年、京都では【池田屋事件】と【禁門の変】が起きました。

禁門の変(蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用
貞も会津藩に捕らわれ、龍馬とおりょうの知り合いである望月亀弥太が池田屋事件で殺害されるという、大変な時期。
8月、龍馬とおりょうは内祝言をあげ、夫婦となりました。
しかし多忙の折、激動の時代です。
夫婦水入らずで過ごすこともできないまま、おりょうは寺田屋に預けられたのです。
人斬り半次郎に迫られて
おりょうは、寺田屋の女将・お登勢のもとで、「お春」と変名を使って働き始めました。
そんなあるとき、中村半次郎(のちの桐野利秋・このときの変名は村上伴左衛門)が大山実次郎とともに、寺田屋に泊まりに来ます。
しかし、中村があまりに粗暴なので、
「嫌やわあ、薩摩隼人は気が荒うてかないまへん」
と給仕の女性たちが嫌がったのです。
これにイラ立った中村は、食器をブン投げて暴れます。うーん、そんなことをすればますます嫌われ……。
「うちに任せておくれやす」
気の強いおりょうは、二階の中村のところに行くと、手酌で酒を5~6杯飲み干しました。
さすがの中村も、若い女がいきなりこんなことをしてきたので、唖然としてしまいます。
「暴れても仕方ありまへん。器量が下がるだけやおまへんか。うちがつきあうたるさかい、十分召し上がっとくれやす」
おりょうはそう言うと、【人斬り半次郎】を恐れることもなく、二人で差し向かいになって飲み続けたのでした。

人斬り半次郎こと桐野利秋/Wikipediaより引用
さんざん飲んだ後片付けて、おりょうが自室で寝ておりますと、人の気配がします。
「わいはよかおなごだ。今夜はおいと寝てくれ」
そう凄んできたのです。
おりょうは笑い飛ばしました。
「うちを誰やと思うとりますのん? 寺田屋のお春どす。うちは宿場女郎とちゃいます。人を見て口説いてくどいとくれやす」
そう言って手を払うと、肌身離さず持つ短刀がポロリと落ちます。
「わいは何者や。ないごて短刀を持っちょっど。あやしかおなごだ!」
中村は慌てておりょうを引っ張って、大山の部屋まで連れて行きました。
「おなごに短刀なんて必要なか。奉行ん回し者じゃな、行動もあやしか。おとなしゅう白状せえ!」
ギラリと人斬り半次郎に睨まれても、おりょうは退きません。
「おなごにも短刀は必要どす。今夜のように、暴れ者が夜這うてきたとき、この短刀で刺してやろうと持っていたもの、あやしいと思うなら好きにすればよろし」
「うぬぬ……」
中村は反論できず、顔を真っ赤にしております。
ここで大山が「ちょっと短刀を見せてみやんせ」と言い出しました。
それから半次郎の袖を引きます。
「わいも冗談はほどほどにしやんせ。こんしは坂本龍馬先生ん奥様じゃ。こん短刀は坂本先生ん差し料ん【越前国広】じゃっで間違いあいもはん。坂本先生に隠し妻がおっとは聞いちょったが、まさかこんしとは。とんだことをしてしもうたね」
中村はたちまち慌てました。
「ごめんなせ、許したもんせ! これは失礼した!」
そう謝り、翌日には中の島でおりょうに食事を奢ったそうです。
「どうか昨晩んこっは、坂本先生には内緒にしたもんせ」
そう口止めしながら、大慌てで薩摩に戻ったそうです。
龍馬は、薩摩藩の多くの人々、西郷隆盛や小松帯刀とも親しい仲です。
この事件が発覚したら、そりゃ大変だったでしょう。
密書を仲介し、隊士を世話し
おりょうは勇敢な女性でした。
新選組が目を光らせている京都で、活動家の妻や恋人であることは、生半可な覚悟ではできません。
おりょうは、夫のために様々なことをしました。
・密書を仲介する
・海援隊の隊士の世話をする
龍馬の活躍は、こうしたサポートあってこそなんですね。
そしておりょう最大のファインプレーは、慶応2年(1866年)の寺田屋における龍馬襲撃(寺田屋事件)において、危難を知らせたことでしょう。
入浴中のおりょうが咄嗟に湯船から飛び出し、袷一枚だけを着て龍馬に聞きを知らせる場面は、幕末ファンならおなじみです。
このあと薩摩藩邸に逃げ込み、そのまま薩摩で「ハネムーン」を満喫したことも、よく知られています。
坂本32才、おりょう26才。
若い二人は名峰・高千穂峰にのぼって「天の逆鉾」を引き抜こうとしてみたり、「塩浸温泉」に入ってみたりしています。

天の逆鉾
10日ほど滞在し、西郷の妻・西郷糸子(岩山糸)にも歓待を受けています。
旅の詳細は以下の記事にございますので、よろしければご覧ください。
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龍馬とおりょうのハネムーン 薩摩への新婚旅行の日程はどんな甘~い旅だった?
続きを見る
夫の死
フィクションでもよく描かれるおりょうの姿は、このあたりまで。
龍馬の物語が終わるとともに、彼女の役目も終わり、幕末という舞台から消えてしまったかのようです。
しかし、もちろんそんなハズはありません。
龍馬を失ってからの人生のほうが、おりょうにとっては長いのです。
慶応3年(1867年)11月、龍馬が凶刃に斃れた日と前後して、おりょうは不吉な夢を見ました。
血塗れの刀を持った龍馬が、しょんぼりとした様子で、枕元に立っていたのです。
夫の身の上に何かあったのかと不安に思っていると、訃報が届きました。
龍馬の仏前で、おりょうは洗い整えた黒髪を切り落とし、備えました。
それまで気丈にふるまっていたおりょうは、このとき、夫の死後に初めて号泣するのでした。
流れ流れて、流浪して…
実は龍馬は生前、北海道に移住する夢を語っていました。
もしそれが実現すれば、明治の北海道開拓史は、流刑のようなものではなく、数段レベルの高い華やかさや経済の発展に恵まれたかもしれません。
龍馬の死後、そうした計画は流れ、海援隊も瓦解。

海援隊の集合写真(左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)/wikipediaより引用
おりょうは土佐の坂本家に身を寄せます。
しかし、龍馬の兄・権平とその妻は、おりょうと気が合いませんでした。
これはあくまでおりょうの言い分と前置きしますが、権平夫妻はおりょうが受け取ることになる、龍馬遺族への見舞金を目当てにしていたそうです。
意地悪をして、おりょうを追い出せば、身持ちの悪い義妹にかわって金が手に入ると考えていた、とのこと。
おりょうはこうした魂胆に嫌気がさし、土佐を去りました。
土佐で彼女をあたたかく迎えてくれたのは、龍馬と親しかった姉の乙女だけでした。
おりょうは京都の東山に庵を結び、夫の菩提を弔う日々を送りました。
ところが美貌のおりょうを世間が放っておいてはくれません。彼女は、さる公卿が面倒を見ると称して、愛人にしたがっているようだと気づきます。
すると今度は京都を去り、江戸を目指しました。
江戸でおりょうが頼ったのは、龍馬の甥(長姉・千鶴の子)で元海援隊士の坂本直でした。
彼は叔父の死後、坂本家の家督を継いでいたのです。
しかし……。
「おりょうさん、おまさんはもう坂本家とは何の関係もない」
冷たくそう言われ、さしものおりょうも悔し涙をこらえるだけで精一杯でした。
おりょうを暖かく出迎えたのは西郷隆盛でした。
それ以外で彼女に親切であったのは寺田屋のお登勢、勝海舟ぐらい。
西郷はおりょうの面倒を見ると言ってくれたものの、程なくして彼は西南戦争で戦死してしまいます。

西郷隆盛byキヨッソーネ/wikipediaより引用
元海援隊士たちも、大半がおりょうのことを「素行不良」と決めつけていました。
誰も彼女に救いの手を伸ばさなかったのです。
龍馬の日記も、遺品も、ほとんど手元から誰かに持ち去られてしまったおりょう。
残されたのは写真と思い出だけでした。
京都の墓参りすら、生活の余裕がなく思うようにできません。
享年66
龍馬と、その横に寄り添うおりょうの姿は、坂崎紫瀾『汗血千里駒』といった小説で描かれていました。
しかし、現実のおりょうがどうなったのか。
どれほど苦労しているのか。
世間は知りませんでした。
龍馬の死から30年以上を経て、やっと彼女の聞き取りが行われています。
『汗血千里駒』自体は、内容が不正確で、おりょうは気に入っておりませんでした。
それでも同作品が話題となるや、彼女への関心が高まり、話を聞こうとする記者たちがやって来たのです。
しかし一時的なものに過ぎませんでした。
状況が変化したのは、日露戦争開戦直前の明治37年(1904年)のことです。
美子皇后の夢枕に坂本龍馬が立ったという話が広まりました。
同時に、龍馬伝説が、再度燃え上がります。
こうなると、未亡人であるおりょうも注目が集まりました。
しかし、明治39年(1906年)、彼女は危篤に陥ります。
皇后大夫・香川敬三(元陸援隊士)から御見舞の電報が送られています。
そしてその直後、亡くなるのでした。
享年66。
時代の求める貞女にあらず
明治時代、多くの元勲の妻たちに、華やかなスポットライトが当たりました。
欧米流の紳士が、淑女を伴う社交儀礼が広まったからです。
それまで上流階級の夫人といえば、家の奥にいるものでしたが、それが一転して表に出るようになったのです。
華麗なドレスに身を包み、鹿鳴館で軽やかなステップを踏むレディたちは、こうして登場しました。
そうした華やかな社交界の一方で、明治維新の立役者である龍馬の妻・おりょうは、不遇の日々を送っておりました。
妹を遊郭から取り戻すためには火鉢を投げ、人斬り半次郎として恐れられた中村半次郎(桐野利秋)相手にも凄んだおりょう。
彼女の気の強さは、模範的な貞女からほど遠いものです。
龍馬の死後。
彼女の衰えぬ美貌に目を付けた男たちは、ひっきりなしに現れています。
しかし、その熱く激しい個性を受け入れることのできた男は、龍馬以外におりませんでした。
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参考文献
- 一坂太郎『わが夫 坂本龍馬――おりょう聞書き(朝日新書 205)』朝日新聞出版、2009年11月13日。ISBN:978-4-02-273305-4(ISBN-10:4022733055)
|書誌情報(版元公式サイト)
|Amazon - 『国史大辞典』吉川弘文館(書籍版:1979–1997年刊)
|参照(ジャパンナレッジ)
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