慶応四年(1868年)2月15日は、堺事件があった日です。
堺で起きたから堺事件……とはあまりにシンプルすぎて概要が全く伝わりませんが、平たくいえば「生麦事件の堺版」みたいな感じです。
-
-
生麦事件~そしてイギリス人奥さんは頭髪剃られ 薩英戦争で友情生まれる
続きを見る
つまり、まだまだ西洋諸国との外交慣れしていない状態の日本で起きた、国家間のトラブルということになりますね。
何となくイメージできたところで、詳しいことを見ていきましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
堺の港に停泊していたフランス海軍デュプレクス
この日、堺港にはフランス海軍の「デュプレクス」という船がやってきていました。日本に駐在していたフランス副領事と、中国・日本方面担当の司令官を迎えるためです。
遡ることこれより2ヶ月ほど前、大坂ではとある事故が起きていました。
天保山沖にやってきていたアメリカ海軍のボートが転覆し、乗っていた提督(海軍のお偉いさん)を含む数名が溺死してしまったのです。
そのため、フランス海軍は「アメリカの二の舞いにならないよう、どこが深くてどこが浅いのか、波の様子はどうか、調べておこう」としました。平たくいえば、港の測量です。
測量をするのに、一般の水兵の力はあまり要りません。
暇になってしまった彼らは、大坂の町に繰り出して遊ぶことにしました。言葉も通じないのに、恐るべき行動力です。
しかも、かなりテンションが上ってしまっていたらしく、フランス水兵たちは日が暮れても船に帰ろうとしませんでした。
ただでさえ外国人慣れしていない日本人が、警戒し始めるのも仕方のないことです。現代だって、外国人であろうと日本人であろうと、見慣れぬ一団が家の周りでうろついていたら怖いですよね。
住民たちは当時堺の警備を担当していた土佐藩士の警備隊に、「偉人たちがうろついていて怖いので、何とかしてください」と訴えました。
仏国公使「何もしていないのにいきなり発砲された」
通報を受けた警備隊は、フランス水兵たちに接触し、船に帰るよう促します。
が、当然のことながら言葉が通じません。仕方がないので捕縛して連れて行こうとしました。
事の経緯が飲み込めないフランス水兵は、これまた当然のごとく抵抗します。そこで土佐藩の隊旗を奪うという無礼に出てしまいました。(ノ∀`)アチャー
言葉が通じないとはいえ、軍や国の旗を奪うというのは、相当失礼な行為です。しかもそれだけではなく、フランス水兵たちが逃げようとしたため、警備隊はやむなく発砲しました。
銃撃戦の末、フランス水兵に多数の死傷者が出てしまいます。
海に突き落とされて、溺死した者もいたようです。
イギリス公使が間に入って取りまとめようと
非はもちろんフランス水兵にもありました。
が、仏国公使レオン・ロッシュたちは「何もしていないのにいきなり発砲された」と受け取り、日本側へ下手人の処罰その他の処分を求めます。
フランス水兵の葬儀を神戸居留地で執り行った際、ロッシュは弔辞としてこんな風に言っておりました。
「私は諸君の死の報復をフランスと皇帝の名において誓う」
どうやら静かに怒りを燃やしていたようですね。
一方、日本側の当事者の上司である土佐藩主・山内容堂は、京でこの事件の知らせを受けました。
たまたま京の土佐藩邸には、イギリス公使館職員アルジャーノン・ミットフォードが滞在しており、「この件に関わった藩士はきちんと処罰する、とフランス公使に伝えてほしい」と頼んでいます。
ミットフォードはただちにロッシュに連絡を取り、日仏間で解決のために動き始めます。
そしてロッシュは在坂中の各国大使と話し合った上で、下手人斬刑・陳謝・賠償などを求める抗議書を提出しました。
戊辰戦争真っ只中の日本側は強気に出られず
時折しも戊辰戦争の真っ最中。
明治新政府の軍はほとんど関東へ行っており、話をこじらせるわけにはいきません。
もし砲撃でもされたら、堺や大坂の町が焼け野原になってしまいます。
そうなれば、佐幕派が「何だ、官軍なんて大したことないじゃないか」と勢いづくおそれがあります。
そのため、仕方なくフランスの要求を呑むことになりました。
しかし、三条実美や岩倉具視が「フランスの言い分をそっくりそのまま呑めば、世論が攘夷に傾いて今後に支障を来す」として、落とし所を探るべきだと主張。
こうして政府代表の外国事務局輔・東久世通禧、外国事務局掛・小松帯刀、外国事務局判事・五代友厚らがフランス側と交渉を重ねました。
朝ドラ『あさが来た』で一躍話題になった五代友厚もこの場にいたんですね。
だから歴史は面白い!
切腹する者をクジ引きで決める
最終的に隊士全員ではなく、隊長以下二十人を処刑することで、話はまとまりました。
隊長を含めた4人がまず死刑と決まり、他の16名は隊員の中からくじ引き。
くじ引きは土佐稲荷神社(現・大阪府大阪市西区)で行われました。
室町幕府の六代将軍・足利義敎のときもそうですが、昔はくじ引きそのものが神様の意志を尋ねるものとされていたので、必ずしもテキトーな方法ではないのです。結果は……。
※続きは次ページへ