天文17年(1548年)2月14日は甲斐武田氏の重臣・甘利虎泰の命日です。
武田信虎と武田信玄の二代にわたって仕えた武将であり、大河ドラマ『風林火山』で竜雷太さんが演じた姿を覚えている方も多いでしょうか。
劇中では千葉真一さんの板垣信方と共に、若き日の武田晴信(信玄)を支え、そして最期は二人とも上田原で散ってしまう――。
そのラストまで印象的な武将でしたが、史実では一体どんな方だったのか?
甘利虎泰の生涯を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
甘利氏は甲斐源氏の庶流
再び大河ドラマの話に戻して恐縮ですが、2022年の『鎌倉殿の13人』で八嶋智人さんが演じた武田信義を覚えていらっしゃいますか?
源義光の子孫で、河内源氏義光流の武田信義。
そのため同じ河内源氏で義家流の源頼朝に危険視されました。
以下の系図をご覧いただくと一目瞭然なように、
源頼義の長男・義家と、三男・義光という流れですね。
頼朝としては「いつ取って代わられても不思議はない」と感じていていたからこそ、武田信義に対して警戒心を抱いていたのでしょう。
実際、信義の嫡男であり、ドラマで前原滉さんが演じた一条忠頼は、騙し討ちによって殺されています。
木曾義仲の子で、大姫の許嫁であった木曾義高が殺害された後、忠頼も呼び出されて謀殺されたのです。
「宴会に呼び出して殺す」という、なんとも酷い手口でした。
しかし、甘利虎泰とこの話が一体どう繋がるのか?
というと、一条忠頼の子である一条行忠が甘利氏の祖とされているのです。
甲斐で何世代も重ねている甲斐源氏には、甘利氏のように庶流から家臣になった家が数多くありました。
信虎時代から仕え 若き晴信を支え
そもそもは甲斐源氏の末裔だったとも推測される甘利虎泰。
その生年月日は不詳です。
当人の功績は、武田信虎時代の武田四天王にも数えられていることから、信玄より上の世代というのは間違いないでしょう。
虎泰の他に板垣信方、飯富虎昌、原虎胤らも仕えており、彼らは信虎を駿河へ追放したクーデター首謀者でもありました。

武田信虎(左)と息子の武田信玄/wikipediaより引用
虎泰は、信虎時代から戦上手であったと伝わります。
豪胆に攻めるというよりも、なるべく損耗を抑え、堅実な勝利を目指すタイプ。
大河ドラマ『風林火山』のイメージに近いですね。
普段から謹厳実直、信頼できる人物で、板垣信方と並んで“名将”というイメージをお持ちの方も多いでしょう。
しかし、残念ながら、史料に即した記録は決して多いと言えません。
むしろ後世のフィクションで誇張された像が広まりすぎて、かえってわかりづらくなったタイプと申しましょうか。
長らく諏訪攻略に関わっていた板垣信方とは異なり、甘利虎泰は史料に恵まれていないのです。
『甲斐国志』では、板垣信方と共に「両職」に仕え、青年期の武田晴信を支えたともされますが、残念ながらこれには根拠がありません。
しかし、ある理由から、その最期だけは明確に記録に残されています。
上田原の戦いです。
※続きは【次のページへ】をclick!