甘利虎泰

こちらは甘利虎泰の息子・甘利信忠を描いた浮世絵(歌川国芳作)/wikipediaより引用

武田・上杉家

甘利虎泰の生涯|信玄を支えた武田家の重臣は信方と共に上田原に散った

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上田原に散る

天文10年(1541年)、武田信玄が父の信虎を駿河へ追放してから7年が経過したときのことです。

信濃諏訪の攻略に取り掛かり、板垣信方ら諸将の働きもあって、快進撃を続けていた武田軍団。

諏訪・伊那・佐久地方を治めた晴信は、北信濃の攻略へ乗り出しました。

そこに立ち塞がったのが葛尾城主・村上義清です。

天文17年(1548年)2月――武田晴信は、雪を踏み締めながら躑躅ヶ崎館を出発。

率いる兵は七千、目指すは小県郡、決戦の地は上田原です。

今日では【上田原の戦い】と呼ばれるこの戦い、先鋒を務めたのは三千五百を率いる板垣信方でした。

板垣信方

板垣信方/wikipediaより引用

精鋭部隊を率いる板垣信方は、たちまち敵を蹴散らしてゆきます。

しかし……。

休息中か、首実検中か、深追いして槍襖に囲まれたか――何かに気を取られて油断してしまった板垣信方が、村上の軍勢に討ち取られてしまったのです。

そして板垣信方の救援に向かった甘利虎泰も、才間河内や初鹿野伝右衛門らと共に壮絶な討死を遂げました。

両雄を討ち取って、勢いを増す村上勢はついに武田の本陣まで突入。

晴信は左手に傷を負います。

武田晴信はかつてないほどの大敗北を喫し、甘利と板垣という大事な両雄を失ったのでした。

二人を討ち取られた晴信は、合戦後もすぐには陣を解かずにいましたが、すぐにはリベンジはできません。

晴信に押さえつけられていた勢力が、ここぞとばかりに反抗してきたのです。

 


その後の甘利氏は?

天文20年(1550年)、武田晴信は戸石城でも村上義清に手痛い敗北(【戸石崩れ】)を喫しました。

葛尾城を攻略し、上杉景虎(謙信)のもとへ追いやったのは、それから2年後、天文22年(1552年)のこと。

それまで村上義清は武田晴信にとって宿敵であり続けました。

その中で甘利虎泰と板垣信方が散った【上田原の戦い】は、名将・武田信玄青年期の敗北として歴史に刻まれますが、残された甘利氏はどうなったのか?

虎泰には甘利信忠と甘利信康という二人の男子がいました。

甘利信忠/wikipediaより引用

家督を継いだ信忠は永禄10年(1567年)に死去。

信忠の子である信頼が周囲の助けを得ながら家督を継ぎますが、天正3年(1575年)【長篠の戦い】で討死してしまいます。

武田家滅亡後の甘利氏について、その詳細は不明――現代では、自民党議員の甘利明氏がその子孫を名乗っています(→link)。

2021年に映画『信虎』が公開されるなど、甲斐武田氏については信玄だけでなく、その上の世代の見直しも進みそうな状況にあります。

知名度が上がることで新史料が発見され、そこから新たな研究へと進むことは珍しくありません。

信虎とその家臣もそうなることを願いましょう。

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【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon
歴史読本『甲斐の虎 信玄と武田一族』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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