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【松前崇広】
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こうしてすったもんだの末、崇広は外様大名でありながら異例の出世コースを歩み、第二次長州征伐の際には十四代・徳川家茂のお供を勤めます。しかし……。
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崇広は、たった一つの失敗により呆気なくクビになってしまいます。
原因は、もう一人の老中・阿部正外(まさとう)と勝手に兵庫を開港してしまったことでした。

阿部正外/wikipediaより引用
当時、幕府は、イギリス・フランス・オランダ各国からこんなプレッシャーをかけられておりました。
「兵庫と大坂で貿易できるようにしてくれないと、何するかわかんないよ?www」
既に下関戦争や薩英戦争で欧米の火力は充分わかっています。
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ここで対応が遅れれば【欧米vs幕府】の全面戦争も考えられるワケで、悠長なことは言ってられませんでした。
なんせ朝廷の許可を取ろうにも、皇族公家は国際事情をまったく把握できておらず、とにかく攘夷を主張するばかりです。
そこで崇広と正外は朝廷の許可を待つことなく、開港を決めてしまったのです。
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「先延ばししとけよ!」 慶喜ブチ切れ
むろん、こんなことスグにバレます。
翌日、一橋慶喜(後の十五代将軍・徳川慶喜)に「何勝手なことしてんだバカヤロー!朝廷から許可が出ないって先延ばししとけばよかっただろうが!」(超訳)とこっぴどく叱られます。
しかし老中二人は反論しました。
「いやいやいや、アイツら”今許可してくんないと、ウチら直接天皇さんと交渉しますけどそれでいいんですね^^” とか言ってるんですよ! そんなことしたら危険過ぎるじゃないですか!!」(超訳)
両者とも100%間違っているとは言い切れず、まさに口角泡を飛ばしあう状態。
若き将軍・徳川家茂が泣き出してしまったほどだといいます。
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結局、朝廷から
「アンタさんたち、こっちの許可も取らんと何してはるんですか?責任を取ってもらいますえ」(超訳)
とお咎めを受け、家茂は不本意ながらに崇広と正外を免職させ、国許での謹慎を命じたのでした。
そして慶応二年(1866年)の初めに帰国した崇広は、その3ヵ月後、腹膜炎で亡くなってしまったのです。享年38。
崇広の写真を見る限り、いかにも身体頑健な人のように思えます。
この”熱病”というのはかなりアヤシイ気がしますが……それは言わないお約束ですかね。当時、日本ではコレラの流行が度々起きていましたから、まったくありえない話ではないのですけれども。
デキる人が正しく評価されないというのは現代でもままある話ですが、なんとも後味の悪い結果です。
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長月七紀・記
【参考】
国史大辞典
『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
松前崇広/wikipedia