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【福沢諭吉】
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アメリカ合衆国での衝撃
アメリカに上陸した福沢諭吉は、念願の英語学習の機会を得ました。
科学技術に関してはさほどショックを受けませんでした。
凄いとは思いましたが、事前に知識として知っていたので「なるほどな」と納得できたレベルです。
しかし、思想や政治制度には心の底から衝撃を受けました。
例えばアメリカで「ワシントンの子孫がどうなったか?」と尋ねても、誰もその先を知りません。
そこからして衝撃。
日本では、徳川家康の子孫が世襲で政権を担っている一方で、アメリカでは民意による選挙で決めていたのを実感として伴ったからです。
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素晴らしいお土産も得られました。
『華英通語』(中国語―英語辞典)です。
和英辞典が編纂されるはるか前のことですから、中英辞典でも十分に貴重な書物となりました。
実際、この辞書を翻訳した『増訂華英通語』を福沢が出版すると、処女出版にしてベストセラーを飛ばすことになるのです。
幕臣として海外へ
福沢諭吉の高い見識をみて、木村は彼を幕府に推挙します。
これを受け、福沢はついに翻訳者として出仕することとなったのでした。
はじめは中津藩士でしたが、それから4年語には幕府直参に取り立てられ、めざましい出世。
文久元年(1861年)には、中津藩上士・土岐太郎八に気に入られ、彼の次女・お錦と結婚します。
福沢家よりはるかに格上で、家の格式を考えれば異例の組み合わせでした。
抜群の語学力を買われた福沢は、幕府の使節団として欧州にも向かうことになりました。
文久2年(1862年)、文久遣欧使節に参加。
この道中では、人種差別、帝国主義、植民地主義といった、列強の負の側面も痛感することになります。
帰国後、福沢は見聞をまとめた『西洋事情』を刊行します。
ちなみに日本ではこの頃、英国公使館焼き討ち事件が起きたり、攘夷を叫ぶテロが横行し始めます。
幕臣が見聞を深めているころ、何も知らない倒幕派はまだそんな段階にいたのでした。
まだ攘夷で消耗しているの?
ある程度、想像がつくと思いますが、福沢は攘夷が大嫌いでした。
そんなことはナンセンスで無理だということを理解しており、こうも喝破していました。
「日本のためとか言っているけど、政治的実権を握りたいからやってるだけでしょ!」
確かにそういう部分はありました。
「イキリ攘夷」とでも言いましょうか。
ともかく仲間内では外国人や西洋に通じた者をやれば「スゲエ!」となるようなノリもあった。
思想も何もなく、ともかく嫌いな奴の言葉を封じるために、ぶった切るような連中もおりました。
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愛国心は、ならず者の最後のより所――とは、イギリスの文学者サミュエル・ジョンソンの言葉です。
福沢に言わせれば、さしずめ「攘夷はならず者の最後のより所」といったところでしょう。
ともかく福沢は、短絡的なテロが横行することに心底呆れ返っておりました。
なんせ彼自身も斬られかねない状況です。
常に警戒を強いられており、見識もない連中がろくでもないことやってんな、というのが実感でしょう。
欧州で万博を見学しているような頃、攘夷派は「異人どもをぶった斬る!」とか言っていたわけですから、呆れても仕方ないところです。
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幕府への失望
慶応3年日(1867年)、福沢は使節として二度目の渡米を果たします。
このとき、使節主席・小野友五郎と揉めています。
福沢は原書の購入を命じられたのですが、そうして手に入れた原書を日本で売り払い、利益を得ようとしていることを察知したのです。
これをキッカケに、福沢は幕府に失望しました。
帰国後、福沢は謹慎処分にされ、そのころ情勢は大きく動きます。
西軍が江戸に迫り、勝海舟が奔走している頃のことです。
福沢は病気を理由に江戸登城を辞め、政局から身を退きました。
彰義隊が徳川家の意地を見せて戦っている最中(上野戦争)でも、福沢はここまでなら戦火が及ばないな――と判断して、英語や経済学の授業を続けていました。
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そして徳川家が江戸城を出て駿府に移ると、福沢は幕府直参としての縁を一切切り、あっさり平民となるのです。
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