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【福沢諭吉】
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まだ攘夷で消耗しているの?
ある程度、想像がつくと思いますが、福沢は攘夷が大嫌いでした。
そんなことはナンセンスで無理だということを理解しており、こうも喝破していました。
「日本のためとか言っているけど、政治的実権を握りたいからやってるだけでしょ!」
確かにそういう部分はありました。
「イキリ攘夷」とでも言いましょうか。
ともかく仲間内では外国人や西洋に通じた者をやれば「スゲエ!」となるようなノリもあった。
思想も何もなく、ともかく嫌いな奴の言葉を封じるために、ぶった切るような連中もおりました。
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愛国心は、ならず者の最後のより所――とは、イギリスの文学者サミュエル・ジョンソンの言葉です。
福沢に言わせれば、さしずめ「攘夷はならず者の最後のより所」といったところでしょう。
ともかく福沢は、短絡的なテロが横行することに心底呆れ返っておりました。
なんせ彼自身も斬られかねない状況です。
常に警戒を強いられており、見識もない連中がろくでもないことやってんな、というのが実感でしょう。
欧州で万博を見学しているような頃、攘夷派は「異人どもをぶった斬る!」とか言っていたわけですから、呆れても仕方ないところです。
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幕府への失望
慶応3年日(1867年)、福沢は使節として二度目の渡米を果たします。
このとき、使節主席・小野友五郎と揉めています。
福沢は原書の購入を命じられたのですが、そうして手に入れた原書を日本で売り払い、利益を得ようとしていることを察知したのです。
これをキッカケに、福沢は幕府に失望しました。
帰国後、福沢は謹慎処分にされ、そのころ情勢は大きく動きます。
西軍が江戸に迫り、勝海舟が奔走している頃のことです。
福沢は病気を理由に江戸登城を辞め、政局から身を退きました。
彰義隊が徳川家の意地を見せて戦っている最中(上野戦争)でも、福沢はここまでなら戦火が及ばないな――と判断して、英語や経済学の授業を続けていました。
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そして徳川家が江戸城を出て駿府に移ると、福沢は幕府直参としての縁を一切切り、あっさり平民となるのです。
明治以降の活躍
福沢は、徳川慶喜に付いていった勝海舟とはちがい、明治以降も華々しく教育者としてのキャリアを重ねます。
明治34年(1901年)、67才で世を去るまで、近代日本発展の基礎作りをしたのです。
そこがお札に印刷されることになった所以でしょう。
彼は「政事の下戸」を自称しており、政府から距離を置いたのが後世に評価されたのかもしれません。
主な業績は、ざっとあげただけでも以下の通りです。
・慶應義塾の創設(慶應義塾大学の前身)
・国会開設運動に参加
・『学問のすゝめ』発刊
・『時事新報』発刊
・脱亜思想を唱える
『学問のすゝめ』については【人間は平等である】という教えにいささか誤解がありそうですので、簡単に触れておきますと……。
人間は平等である。
しかし現実はそうではない。
学問を修めたものがよい生活をしているのだから、これからは学問をしよう。
ざっくばらんに言うと、こんなところです。
詳細は以下の記事をご参照ください。
誰もが平等なんて言ってない「天は人の上に人を造らず」学問のすゝめのリアル
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