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【福沢諭吉】
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咸臨丸船上での出会い
安政6年(1859年)。
江戸幕府は、日米修好通商条約締結に伴う使節団をアメリカに派遣することにしました。
使節はポーハタン号と咸臨丸で出発し、そのうちの咸臨丸に福沢諭吉も乗船。
ナゼ乗船できたのか?
と言うと、出入りしていた桂川家と軍艦奉行並の木村喜剛が姻戚関係にあったからです(桂川甫周の妻の姉が、木村の妻)。
どうやら福沢が、桂川家経由で熱心に頼んだようで、木村の従僕という名目で参加します。
ワクワクとした気分で乗船した福沢は、船中にいたある人物に軽蔑の念を抱きました。
木村は若きエリート官僚で、海軍に関しては不得手なところもありました。
そんな彼を若造とあしらい、船酔いのストレスもあってか、イラ立ちをぶつけていた男がいたのです。
『横柄で嫌な男だ。自分は船酔いでろくに指揮も執れないくせに、何様のつもりだ?』
福沢がそう厳しい目で見た相手こそが勝海舟です。
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勝は木村とは反対で、低い身分の旗本から見いだされた叩き上げの男です。
若手エリートvs叩き上げという、ありがちな対立構造。
福沢は木村の従僕ですから、何かと絡んでくる勝を、白い目で見ていたわけです。
福沢は、自分の英語が全然通じないことにショックを受けました。
しかし、アメリカ人水夫らと会話をして英語力をつけようと努力を重ねたのです。
アメリカ合衆国での衝撃
アメリカに上陸した福沢諭吉は、念願の英語学習の機会を得ました。
科学技術に関してはさほどショックを受けませんでした。
凄いとは思いましたが、事前に知識として知っていたので「なるほどな」と納得できたレベルです。
しかし、思想や政治制度には心の底から衝撃を受けました。
例えばアメリカで「ワシントンの子孫がどうなったか?」と尋ねても、誰もその先を知りません。
そこからして衝撃。
日本では、徳川家康の子孫が世襲で政権を担っている一方で、アメリカでは民意による選挙で決めていたのを実感として伴ったからです。
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素晴らしいお土産も得られました。
『華英通語』(中国語―英語辞典)です。
和英辞典が編纂されるはるか前のことですから、中英辞典でも十分に貴重な書物となりました。
実際、この辞書を翻訳した『増訂華英通語』を福沢が出版すると、処女出版にしてベストセラーを飛ばすことになるのです。
幕臣として海外へ
福沢諭吉の高い見識をみて、木村は彼を幕府に推挙します。
これを受け、福沢はついに翻訳者として出仕することとなったのでした。
はじめは中津藩士でしたが、それから4年語には幕府直参に取り立てられ、めざましい出世。
文久元年(1861年)には、中津藩上士・土岐太郎八に気に入られ、彼の次女・お錦と結婚します。
福沢家よりはるかに格上で、家の格式を考えれば異例の組み合わせでした。
抜群の語学力を買われた福沢は、幕府の使節団として欧州にも向かうことになりました。
文久2年(1862年)、文久遣欧使節に参加。
この道中では、人種差別、帝国主義、植民地主義といった、列強の負の側面も痛感することになります。
帰国後、福沢は見聞をまとめた『西洋事情』を刊行します。
ちなみに日本ではこの頃、英国公使館焼き討ち事件が起きたり、攘夷を叫ぶテロが横行し始めます。
幕臣が見聞を深めているころ、何も知らない倒幕派はまだそんな段階にいたのでした。
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