琉米修好条約

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琉米修好条約を要求したのもペリーだった 知られざる琉球の開国事情

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このときも琉球に顔を出した後、江戸に行って日米和親条約を結び、その帰りにまた琉球へ来ています。

琉球からすれば、外堀を埋められた感じがしたでしょうねぁ。

朝貢先だった清は、既にアヘン戦争で負けており、当然ながらその情報は知っていたでしょう。

ペリーはほとんど時間的猶予を与えるつもりはなく、回答期限はたった3日という短期間にしています。

琉球政府としては不服だったでしょう。

しかし、日本が日米和親条約を締結したと知ると、琉球としては抗う力もなく、仕方なくこれを受け入れ、調印いたしました。

七か条で、条約は漢文と英語で二通ずつ作られ、後にもう一通追加しています。

 

なぜか墓地を設置することが含まれていた

琉米修好条約の内容は、日米和親条約よりも少しヌルいもので

【アメリカを最恵国待遇にする】

などの項目が含まれていません。

逆に”日米和親条約にはなく、琉米修好条約にある”条文としては、

【アメリカ人墓地を設置すること】

が挙げられます。日米修好通商条約にもこういった条文はありませんね。

しかしなぜ、琉球にだけお墓を求めたのでしょう。

当時、琉球までの航路で亡くなるアメリカ人が多かったとか、周辺の海域で船が難破しがちだったんですかね。

現代でも沖縄は本州よりも台風の被害が出やすいですし、いわんや19世紀をや。

ちなみに、琉球はこの翌年に、フランスからも同様の条約を結ばされています。

「琉仏修好条約」です。まんまですね。

しかもこのときは、条約の修正を持ちかけたら武力行使をほのめかされ、フランス人がやってきてからわずか二週間ほどで強引に調印させられております。

さらに、フランス人居留地まで作らされています。清仏戦争といい、この時代のフランス(帝国)はロクなことしてません。

さらにフランスとの間に琉仏修好条約(1855年)が結ばれると、次にオランダとも琉蘭修好条約(1859年)が結ばれています。

いずれも不平等条約でした。

 

なぜか「台湾-琉球」の交流がつながりが薄い?

これらの条約は、いつまで有効だったか?

と言いますと、いずれも明治十二年(1879年)の琉球処分によって琉球王国が滅亡したことにより、失効したとみられています。

それによるトラブルも特にないようなので、アメリカやフランスのほうでも特に問題はないとみなしたのでしょうか。

ちなみに、現代では沖縄と距離的にも文化的にも近い台湾とは、意外と歴史的接点が少なかったようです。

中国の歴代王朝からは似たような場所と認識されていて、現在の沖縄と台湾を合わせて「琉球」と呼んでいた時代が長かったのですが。

近年の研究でも、沖縄の方と台湾の方には遺伝子的にあまり共通点がない=混血の形跡があまり見られないそうです。

ということは、”中国-台湾”や”中国-琉球”というルートはあっても、”台湾-琉球”という繋がりはなかったのでしょう。不思議なものです。

琉球王国は中国へ朝貢をしていましたから、その船が台湾を通っていてもおかしくないと思うのですけれどもね。

まぁ、17世紀のオランダ統治時代以前の台湾については謎が多いので、もしかしたら多少のお付き合いはあったかもしれません。

台湾の歴史がより詳しくわかれば、琉球との関係について意外な事実が出てきたりするのでしょうか。楽しみなところです。

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長月 七紀・記

【参考】
日本大百科全書
琉米修好条約/Wikipedia

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