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【不平士族の反乱】
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◆秋月の乱
こちらは旧秋月藩士(約450人)による反乱です。
秋月藩は上杉鷹山の実家の藩であり、名君を多く輩出した藩でもあります。
当初、彼らは前述【佐賀の乱】に呼応しようとしていたのですが、準備が間に合わず断念していました。
そこに上記の敬神党から「一緒にやろうぜ」(超訳)という誘いがあったので、一時はためらいつつも、最終的には賛同します。
近所の旧小倉藩士にも話を持ちかけましたが、こちらの賛同は得られなかったそうです。
しかし、グダグダしているうちに小倉鎮台から奇襲を受け、旧秋月藩士たちの間でも仲間割れが起き、自害する者まで出てしまいました。
一時は反抗したものの、政府軍が即座にやってきて11月頭には完全に鎮圧されてしまっています。
◆萩の乱
旧長州藩士による反乱で、こちらも332名という大所帯でした。
首領に担がれたのは、前原一誠(いっせい)という人です。
彼は大村益次郎の後任として兵部大輔(現代でいえば防衛副大臣みたいな役職)を務めていたのですが、木戸孝允と奇兵隊反乱の処分を巡って対立し、長州に帰って隠棲していました。
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佐賀の乱が起きたときに県令から
「佐賀の反乱軍が長州に入ってきたら困るから、お前ちょっと仲間を集めてなんとかしろ」(超訳)
と言われたことがあり、その時点では危険人物とは思われていなかったようです。
このときは3,000人もの義勇兵が集まったとか。それほど地元での人望があったということになりますね。
前原は
「征韓論に賛成」
「地租改正と士族の解体に反対」
という考えでした。
まとめると「長州には明治政府の方針に反対する人々が3,000人いた」ということになります。
これらを危惧した木戸は、前原に元老院議官(明治初期にあったお偉いさん役の一つ)への就任を勧めて有事を防ごうとしましたが、断られてしまいます。
そのため木戸は長州にスパイを送り、前原の動きを監視させていました。
この時点では同士を集めて多少の談判はしていたらしいですが、前原たちは具体的な行動には至っていません。
しかし、【神風連の乱】を受けて挙兵を決意します。
まず山口県庁を襲撃しようとしたものの、政府軍に阻まれてうまく行きませんでした。
敬神党や秋月の乱と比べて、前原以下がまとまっていて士気の高い一団だったからか、政府軍は鎮圧まで少々手こずっており、死傷者77名を出しています。
前原たちは石見へ脱出しようとしたところで捕縛され鎮圧されました。
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