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【ジョン万次郎】
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ホイットフィールドとの再会
明治維新のあと、明治3年(1870年)。
万次郎は普仏戦争の視察のため、大山巌(西郷隆盛のイトコ)らと欧州へ派遣されました。
その途中、万次郎はアメリカ・マサチューセッツ州フェアヘイヴンにて、懐かしい人物と再会しました。
大恩人のホイットフィールドです。
彼は万次郎が祖国で立派に役割を果たしていることを、大いに喜んだのでした。
そして向かった欧州。
ロンドン滞在中、脚に潰瘍ができてしまったことを理由とし、万次郎は急遽帰国します。
自分は帰国後、この国をよくするために尽くして来た。
しかし、その結果、祖国は自分が目指した方向とは別の方に向かっているのではないか……万次郎の胸に、そんな思いがよぎりました。
確かに時代は変わったものの、明治政府は藩閥政治が行われ、腐敗も目に余るものがありました。
万次郎がアメリカで見たデモクラシーとは別の何かが、日本を覆っている――。
戦争を見学するよりも、もっと参考すべきものがあるのではないか?
そう考えたところで、万次郎は無力です。
政治的野心もなければ、藩閥という後ろ盾もろくにない万次郎。もはや明治政府も万次郎に頼る必要はありません。
帰国した留学生や、お抱え外国人を雇えば済むことでした。
万次郎は帰国後、政治に関わることはありませんでした。教育者として、東京帝国大学で教鞭を執ることを選ぶのです。
幸福な一家の父親、されど貧しく
明治17年(1884年)、デーマン牧師が来日しました。
彼の目的のひとつに、旧友であるジョン・マンに再会することがありました。
そこで聞いたのは、驚愕の知らせでした。
「彼ならもう亡くなっていると思いますよ」
デーマンは驚きました。
しかしそれは違ったのです。
万次郎は世間から忘れられていただけで、生きていました。
デーマンが再会したのは、極めて健康で幸福な一家の父親となった、旧友の姿でした。
しかしデーマンは、嘆きを隠せません。
あれほどまでに日本の開国に尽くした万次郎なのに、財産も何もなく、子息の扶養に頼って暮らしていたのです。
その大きな功績に、日本の政府は十分に報いていないではないか。それがデーマンの実感でした。
アメリカ帰国後、デーマンは自らが発行する新聞で、こう主張しました。
日本政府は、かつて日本のために尽くしたこの年老いた忠実な臣民に対して、十分な恩給を与えるべきである。
そのことにより、政府の名誉を高めるよう、私は心の底から願ってやまない――。
しかしデーマンの願いは叶いませんでした。
ひっそりと、隠者のように静かな余生を過ごし……明治31年(1898年)、中浜万次郎、死去。享年72でした。
万次郎の人生は、幕末の日本だけではなく、多くの人々の好奇心を掻き立てました。
大胆に脚色され、ミュージカル『太平洋序曲』にもなっており、最近では2017年のブロードウェイでも上演されています。
※『太平洋序曲』より「神奈川へようこそ」
彼の人生は、幕末において日米間を結んだ第一人者として、今なお語り継がれています。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
国史大辞典
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
ほか