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【調所広郷】
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幕末躍進の基礎作りを行う
調所のおかげで、赤字であった財政は黒字に転換。破綻寸前であった財政は健全化しました。
それだけではありません。
まず財政赤字は、回復どころか黒字化を成功させ、1851年(嘉永3年)時点で50万両~300万両ともされる蓄財までできました。
さらには貿易の際に販売する陶器の作成を行ったり、産業を奨励した結果、経済活動が活溌になり、例えば薩摩焼の生産を進めた苗代川地区では特に藩財政に貢献します。
お金が潤えば当然大掛かりな工事にも資金投下ができるようになり、
・領内港湾
・河川
・道路&交通網の整備
・甲突川五石橋の建設
などなど、藩内のインフラ環境もよくなります。
こうした設備の向上は、いざというときの軍事行動にもプラスとなるものです。
もしも調所が財政健全化を行わなければ、幕末の薩摩藩はあのような飛躍はできたでしょうか。
もちろん彼らの才気が一番でありますが、何事も資金なくして動けるものではありません。
その点、あまり語られることはないですが、調所広郷の功績は薩摩にとって計り知れないものがあったのです。
しかし……。
「お由羅騒動」に巻き込まれ
そんな調所は、残念ながら薩摩藩内を二分する争い「お由羅騒動」に巻き込まれてしまいます。
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調所とすれば、重豪に似ている島津斉彬が藩主となるのは、悪夢の再来に他なりません。
生涯をかけて何とかした借金地獄がまた蘇るのは、絶対に避けたい。そう考えるのは当たり前のことでした。
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そもそもこの「お由羅騒動」ですが、由羅が「斉彬の子を呪詛した」という嫌疑自体が疑わしいものです。
誤解を恐れずに申し上げれば、言いがかりのようなもの。
担ぎあげられた島津久光にせよいい迷惑というものでして、当人が藩主の座を狙っていたものではありません。実際に斉彬と久光の兄弟仲が良かったことからもそれは窺えるでしょう。
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しかし斉彬派はここで、ギリギリの策をやってのけます。
斉興を排除して隠居に追い込むため、老中の阿部正弘に密貿易の件を密告するのです(そんなものは江戸初期からやっていたことで、今更というところですが……)。
江戸の薩摩藩邸で急死
嘉永元年(1848年)、江戸に向かった調所は、老中・阿部正弘から密貿易の件を追及されました。
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そして取り調べが島津家にも及ぶかと思われたその直前。
調所は江戸の薩摩藩邸で急死します。
おそらくは主君・斉興に罪が及ぶのをおそれ、罪をすべて自分でかぶった上での、覚悟の自殺――。
享年73。
調所の元で共に改革を進めていた薩摩藩士・海老原清熈は、彼を悼み、こう詠みました。
かくとだの言はまほしけれ苔の下の君が心の底も知られて
部下である海老原は、調所が辣腕を振るい「鬼の調所」と呼ばれる様子を目にしてきました。
高齢になっても家老を辞めようとせず、改革を成し遂げたいとする気持ちも理解してきました。
誰が好き好んで「鬼の調所」と陰口を叩かれたいものでしょうか。
海老原には痛いほど、彼の気持ちがわかっていました。そんな気持ちがこめられた歌です。
しかし、その海老原も斉彬派に憎まれ、調所の死後隠居。
文久3年(1863)には、追罰を受けました。
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