幕末の戊辰戦争で敗者となった越後長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)。
2013年の大河ドラマ『八重の桜』にも少しだけ登場し、新政府軍幹部からは
「西郷隆盛ほどの年齢に達し、彼ほどの度量があれば、長岡戦争は避けられたであろう」
と評されておりました。
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残念ながら大河ドラマ『西郷どん』では戊辰戦争がほとんど描かれておりませんでしたので、もしかしたら河井継之助については
・ガトリング銃(機関銃)を導入した
ことぐらいしか知られていないかもしれません。
それではもったいない。
本当はすごいラストサムライだったのです。
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藩主・牧野忠雅に見出されて藩政改革に取り組む
幕末においては執政として藩政を担った河井継之助。
文政10年(1827年)1月1日に生まれました。
父は家禄120石の勘定奉行と、さほど良い家の出身ではありません。
しかし、若い頃に日本のあちこちを放浪しながら勉学に励んでいたそうで、特に長崎を訪れてからは開国論に傾きました。
継之助にとってラッキーだったのは、藩主・牧野忠雅が非常に話のわかる人だったことでしょう。
忠雅は幕府の老中としてペリーの黒船来航へ対処したこともあり、身分を問わず家臣から幅広い意見を募っていました。
その中で継之助が提出した第二次長州征伐(幕府が敗北する)へ幕府側に立って参戦することに反対する意見書が目に留まり、「お前に任せたい仕事があるから、長岡へ戻って来い」と命じられるのです。
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こうして慶応2年(1866年)に大抜擢された継之助は、家伝の会計能力と西洋の知識を存分に生かして藩政改革に力を注ぎます。
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彼が目指したのが、まず「庶民を豊かにすることで藩の財政を立て直す」という、現代の日本人が聞いても羨ましい立派なものでした。
実際に、
・代官の収賄禁止
・100石以上の藩士の禄は減らし100石以下のものは増やす
・水が腐ったような土地の免税
・川の通船税取立て廃止
などを敢行。
わずか1年で藩の余剰金9万9000両を残すまでになります。
当然、重臣たちから「殿に気に入られたからって偉そうに!」と反感を買ってしまいました。
が、空気なんて読まない河井継之助はめげません。
その後、大政奉還などいろいろあった後に戊辰戦争が勃発。
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当初、長岡藩は新政府軍にも幕府軍にもつかず、中立を保ちながら両軍の仲立ちをしようとしていました。
「国内でごたごたしてもしょうがないだろ! 今、外国が攻めてきたらどうする気なんだ!」というわけです。
ただ、大政奉還後に、幕府と薩長を調停しようと名乗り挙げたのはいいのですが
「もう一度、徳川に任せたらどうだろう」
なんて、藩主の名代としてKYなことを言ってしまったのが後に響きます。
長岡藩の牧野家は、薩長のような外様大名ではなく、徳川に恩のある譜代大名だったからです。
連射可能なガドリング砲
長岡藩は「武装中立」を目指しつつ、河井継之助の財政改革で得た潤沢な資金を用いて、当時の最新武器を外国から買い集めました。
丸腰の言うことをすんなり聞いてもらえると思うほど、世の中甘くない――小身から藩の事実上トップに上り詰めた彼は理想主義者ではありません。
このとき買った武器はアームストロング砲・ガトリング砲・エンフィールド銃などでした。
アームストロング砲はいわゆる大砲のこと。
会津の鶴ヶ城に大ダメージを与えた大砲として有名ですが、会津側だった長岡藩も持っていたのです。
ガトリング砲は現在の機関銃とは随分形が違いますが、画期的な連射式の銃でした。
エンフィールドはいわゆるライフル(筒の中に螺旋状の刻みを入れることで飛距離が大幅にアップする)で、これらを江戸の藩邸や家宝を売り払ってまで買ったというのですから、継之助の有無を言わせない姿勢が窺えます。
それでも落城時には11万両の資金があって、余裕で払えたというのだから、その経済手腕はすばらしいものがありますよね。
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