河井継之助

河井継之助/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末長岡藩の切れ者・河井継之助|連射OKなガドリング砲を購入して戊辰戦争へ

2024/12/31

幕末の戊辰戦争で敗者となった越後長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)。

文政10年1月1日(1827年1月27日)はその誕生日です。

2013年の大河ドラマ『八重の桜』にも少しだけ登場し、新政府軍幹部からは「西郷隆盛ほどの年齢に達し、彼ほどの度量があれば、長岡戦争は避けられたであろう」と評されておりました。

大河ドラマ『西郷どん』では戊辰戦争がほとんど描かれておりませんでしたので、もしかしたら河井継之助については

・ガトリング銃(機関銃)を導入した

ことぐらいしか、あるいは現代ではそれすらも知られていないかもしれません。

それではもったいない。

本当はすごいラストサムライだったのです。

河井継之助/wikipediaより引用

 


藩主・牧野忠雅に見出されて藩政改革に取り組む

幕末においては執政として藩政を担った河井継之助。

前述の通り、文政10年(1827年)1月1日の生まれであり、父は家禄120石の勘定奉行で、さほど良い家の出身ではありませんでした。

しかし、若い頃に日本のあちこちを放浪しながら勉学に励んでいたそうで、特に長崎を訪れてからは開国論に傾きます。

継之助にとってラッキーだったのは、藩主の牧野忠雅が非常に話のわかる人だったことでしょう。

忠雅は幕府の老中としてペリーの黒船来航へ対処したこともあり、身分を問わず家臣から幅広い意見を募っていました。

ペリー来航/wikipediaより引用

その中で継之助が提出した第二次長州征伐(幕府が敗北する)へ幕府側に立って参戦することに反対する意見書が目に留まり、「お前に任せたい仕事があるから、長岡へ戻って来い」と命じられるのです。

こうして慶応2年(1866年)に大抜擢された継之助は、家伝の会計能力と西洋の知識を存分に生かして藩政改革に力を注ぎます。

 


アベノミクスをこえるカワイノミクス

河井継之助がまず目指したのは「庶民を豊かにすることで藩の財政を立て直す」という、現代の日本人が聞いても羨ましい立派なものでした。

実際に、

・代官の収賄禁止

・100石以上の藩士の禄は減らし100石以下のものは増やす

・水が腐ったような土地の免税

・川の通船税取立て廃止

などを敢行。

わずか1年で藩の余剰金9万9000両を残すまでになります。

いきおいその他の重臣たちから「殿に気に入られたからって偉そうに!」と反感を買ってしまいました。

しかし空気なんて読まない河井継之助はちょっとやそっとのことではめげません。

その後、大政奉還などいろいろあった後に戊辰戦争が勃発。

『大政奉還図』邨田丹陵 筆/wikipediaより引用

当初、長岡藩は新政府軍にも幕府軍にもつかず、中立を保ちながら両軍の仲立ちをしようとしていました。

「国内でごたごたしてもしょうがないだろ! 今、外国が攻めてきたらどうする気なんだ!」というわけです。

ただ、大政奉還後に、幕府と薩長を調停しようと名乗り挙げたのはいいのですが

「もう一度、徳川に任せたらどうだろう」

なんて、藩主の名代としてKYなことを言ってしまったのが後に響きます。

長岡藩の牧野家は、薩長のような外様大名ではなく、徳川に恩のある譜代大名だったからです。

 

連射可能なガドリング砲

長岡藩は「武装中立」を目指しつつ、河井継之助の財政改革で得た潤沢な資金を用いて、当時の最新武器を外国から買い集めました。

丸腰の言うことをすんなり聞いてもらえると思うほど、世の中甘くない――小身から藩の事実上トップに上り詰めた彼は理想主義者ではありません。

このとき買った武器はアームストロング砲・ガトリング砲・エンフィールド銃などでした。

アームストロング砲はいわゆる大砲のこと。

会津の鶴ヶ城に大ダメージを与えた大砲として有名ですが、会津側だった長岡藩も持っていたのです。

ガトリング砲は現在の機関銃とは随分形が違いますが、画期的な連射式の銃でした。

1865年型のガドリング砲/wikipediaより引用

エンフィールドはいわゆるライフル(筒の中に螺旋状の刻みを入れることで飛距離が大幅にアップする)で、これらを江戸の藩邸や家宝を売り払ってまで買ったというのですから、継之助の有無を言わせない姿勢が窺えます。

それでも落城時には11万両の資金があって、余裕で払えたというのだから、その経営手腕は素晴らしいものがありますよね。

 


金持ちケンカせずを貫けないサムライスピリッツ

長岡藩は、この背水の陣ともいえる姿勢で新政府軍と交渉に臨みました。

しかし、話し合いでは意見を聞き入れてもらえず、いよいよ幕府側として戦闘に参加せざるをえなくなってしまいます。

長岡藩は東北の諸大名が組んでいた奥羽越列藩同盟として新政府軍と戦うことになるのですが……

奥羽越列藩同盟旗/photo by Pentacube (talk) wikipediaより引用

ここでもギリギリまで武装中立を貫こうとします。

すでに領内では同盟サイドの会津軍が新政府軍と激戦をしていました。

その中で、河井継之助は苦しい判断を部下に下します。

「朝廷の命令は聞け。ただし徳川への恩を忘れるな」

もう戦闘が始まっているのに、これまたちょっとKY的な……現実主義者としての一面と、恩顧を尽くす面とで、必死に悩み抜いたことが伝わってきます。

北越戦争を描いた浮世絵/wikipediaより引用

そして5月1日、新政府軍のもとへ行き、相手の軍監・岩村高俊に

「というわけで、今までのうちの藩は挙動不審ですみませんでした。でも、主人は恭順のほか何も考えていません。ただ藩内の議論をその方向でまとめたいのでしばらく時間の猶予をお願いしたい」

と直接伝えました。

しかし、岩村は怒ります。

「なにを今更! いまドンパチやっているの見えんのか! 猶予とかいって戦闘準備をしようというんだろ!」

この時点で長岡藩1,800 vs 新政府4,000だったので、5月19日に長岡城は炎上、奪われてしまいました。

それでも継之助は諦めません。

1万6,000両の大金で、外国の「死の商人」スネルから銃器弾薬を買い入れます。

新政府軍も補給線が伸びて弾薬不足だったのです。

 

左足に銃弾を受け、治療もむなしく……

7月24日、まるで小説かゲームのような急展開で、大雨と闇夜の隙をついて城を奪い返します。

ところが、このときに河井継之助は左足に銃弾を受けてしまいます。

相当な重傷で、指揮をとることもままならなくなりました。

その後、29日に、再度城は奪われ、物資も兵も損失していた長岡藩士達は退却せざるを得ませんでした。

継之助は板の乗せられ、会津藩を目指して密かに山道を落ち延びます。そして……。

途中の会津領の塩沢村(福島県)というところで息を引き取りました。

先に会津へ落ち延びていた藩主が派遣した幕府のお医者さんの治療も受けたのですが、当時の技術では、銃創に対する適切な処置ができなかったのでしょう。

直接的な死因は、破傷風だったと言われています。

享年42。

 

熱い思いは修造に受け継がれアサヒビール等で

河井継之助は塩沢村の前に立ち寄った村でも、既に死期が迫っていることを悟っていたらしき言動をしています。

「藩主の跡継ぎを亡命させてくれ」

「今後は庄内藩を頼れ」

などなど、気にかかることは全て言い残しておこうとしたかのような発言の記録が残っています。

目をかけていた外山脩造(とやましゅうぞう)には、

「今後は身分制度がなくなるだろうから、商人になって財力を蓄えるように」

と、先見の明を示しています。

実際、外山はこの言いつけを守り、明治になってからアサヒビールなど数々の会社の創業に関わりました。

外山脩造/wikipediaより引用

敗走中の継之助は自嘲を込めて、こんな句を読んでいます。

八十里 こし抜け武士の 越す峠

書いたそのまま、自分の情けなさを謳ったのでしょう(腰と越=越後をかけている)。

しかし、彼は腰抜けどころか後々のことまで細やかに考えていた、幕末史上まれにみる立派なサムライでした。

冒頭の西郷隆盛と比較した言葉は、時間の猶予をくれと頼んだ軍監の岩村高俊の発言なのですが、継之助と西郷隆盛は同い年なのです。

継之助がめちゃくちゃ若く見えたのか。それとも西郷隆盛があまりにおっさんに見えたのか。

なんとも謎であります。


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【参考】
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon
河井継之助/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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