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【大隈重信】
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パークスと火花を散らすも「万国公報」で反撃!
新政府でも屈指の実力者であった大隈重信は、
【キリスト教徒処分問題】
でイギリス公使パークスとの外交交渉にあたることになりました。
パークスは優秀であり、日本のことをよく知り、非常に興味深い一方で、かなり強引なところもあります。
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「オークマの詭弁は聞きたくない!」
そう強気のパークスに対し、少しもひるまない大隈は
「”万国公法”では、あなたのように内政干渉をすることを禁じています!」
といった調子でやり返します。
まさか日本政府に【内政干渉】という概念を知ってる者がいるとは、思わなかったのでしょう。
さすがのパークスも、これには黙らざるを得ません。
これは、樺太問題と並べると、実に素晴らしい対応です。
パークスは樺太領有についても強引に鑑賞し、ロシアに引き渡すよう割り込み、明治政府はそれに従っております。
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大隈はパークスに嫌われたかと思ったそうです。
が、実際のところ、彼の方では感じ入ったようで。後にフランスとの交渉を控え、大隈がイギリスに頼るため挨拶へ向かったところ、パークスは非常に丁寧かつ好意的に応対したと言います。
毅然な態度が、実はパークスを感心させていたワケですね。
そんな大隈の元には、気鋭の政治家が集結。
伊藤博文、井上馨らが集う大隈の私邸は「築地梁山泊」と呼ばれたほどでした。
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明治以降の日本をどうするか?
彼らはそこで盛んに語り合ったのです。
新政府の柱として活動
大隈重信は、明治政府で着実にその地位を確立してゆきました。
ざっと軌跡を記しておきましょう。
明治元年(1868年)末に外国官副知事
明治2年(1869年) 会計官副知事を兼務し、贋貨問題の処理を担当する。さらには大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開局などに尽力
明治3年(1870年) 参議
明治4年(1871年) ウィーン万国博覧会事務局総裁に就任
明治6年(1873年) 大蔵省事務総裁、大蔵卿
明治7年(1874年) 台湾出兵・蕃地事務局長官
※征韓論には反対派で、大久保利通につきました。西郷に功績があるとはいえ、明治政府の進化に追いつけなかったと酷評。その死でより政治がやりやすくなったと、率直に述べたほどです
明治10年(1877年) 征討費総理事務局長官
明治11年(1878年) 地租改正事務局総裁を兼任
明治13年(1880年) 参議専任
大隈は、大久保政権において財政問題を担当。
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秩禄処分や地租改正、殖産興業政策等、次々と難しい問題に取り組み、改革を推進しました。
こうした大隈による財政は「大熊財政」と呼ばれております。
近代産業の推進に、大きな役割を果たしたのですね。
岩崎弥太郎の「三菱汽船会社」を助け、三菱との密接な関係の基礎も作っております。
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薩長閥と対立下野、早稲田を作る
明治政府で輝かしい実績を挙げ、将来も明るいであろう――そう思われた大隈重信の政治家生命は、しかし順風満帆ではありませんでした。
明治14年(1881年)。
「国会開設奏議」を提出し、政党内閣制と国会の即時開設を主張。西洋の政治に詳しい彼ならではの行動でした。
さらには薩摩閥(五代友厚)が絡んでいた「開拓使官有物払下げ事件」に対して猛然と反対します。
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いつしか彼は、薩長閥にとって煙たい男となり、伊藤博文らから財政上の不手際をつかれ、参議を罷免させられます。
大隈派の官吏も、多数が辞職しております(明治十四年の政変)。
政府を追われた大隈は、小野梓・矢野文雄ら辞職官吏とともに、政党組織を推進。
明治15年(1882年)には「立憲改進党」を結成して、総理(党首)となります。※首相のほうの「総理」になるのは1898年です
在野してからの精力的な活動はそれだけにとどまりません。
同年秋には東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立しました。
この学校、実は当時「あんなとこに通ったら馬鹿になる」と、言われておりました。
というのも早稲田という地は、大隈の邸宅があったからこそ選ばれたのですが、そこはミョウガの産地。
ミョウガを食べると忘れっぽくなるという言い伝えから、そう考えられたのです。
そうでなくとも当時は不便な場所です。
あんなところに学校を作って何考えてんの?
と揶揄されたそうですが、大隈としては「吉原や浅草のような盛り場近辺に作るよりよっぽどいい」と悠然としておりました。
※まぁ、そうなると、後に日本一の歓楽街・歌舞伎町が大学のスグ近くで発展してしまったのは、歯がゆいところかもしれません
当時の私立学校は政府から「謀反学校」と呼ばれました。
妨害すら受けることもありましたが、大隈は学校経営を諦めません。
早稲田と並ぶ慶応大学の創始者・福沢諭吉とは、明治11年(1878年)頃から付き合いが始まっております。
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もともと大隈は倒幕派で、福沢は幕臣です。
普通に考えれば最悪の組み合わせであり、実際のところ、最初は互いに嫌いあっていましたが、これを面白がったか、あるいは何とかせねばいけないと思った人が引き合わせたところ、なんと打ち解け、気があったとか。
英雄は英雄を知るというところかもしれません。
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