幕末の薩摩藩において、大きな影響力を有した精忠組(誠忠組)。
西郷隆盛や大久保利通をはじめ、有馬新七、村田新八、大山格之助(大山綱良)ら、大河ドラマ『西郷どん』の郷中仲間も名を連ねたことで知られ、薩摩における維新の原動力とされています。
ただ、ややこしいことに彼ら自身がそう名乗ったわけではありません。
後世、命名されたもので、長州・土佐で言えば「松下村塾(長州藩)」や「土佐勤王党(土佐藩)」に該当する感じですかね。
精忠組――その歴史を見て参りましょう。
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島津斉宜が隠居となった「近思録崩れ」から
話は少し遡りまして。
西郷を見出した島津斉彬(なりあきら)や、西郷との間柄が微妙だった島津久光。
その父が島津斉興(なりおき)であり、彼はかなり特異な経歴の持ち主でした。
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藩主に就任するときに御家騒動。
藩主を辞めるときも御家騒動を引き起こしたのです。
彼の父・島津斉宜(なりのぶ)が、強制的に隠居させられるキッカケとなった事件が「近思録崩れ」と言われるものです。
斉宜に共鳴し、藩政改革の中心となった薩摩藩士たちが『近思録』を愛読していたことから、こう呼ばれました。
『近思録』とは、儒教でも朱子学派のテキストです。
とはいえただの教科書ではなく、薩摩藩士であれば誰もが「近思録と言えばアノ事件でごわすな……」と連想してしまうものでして。
「精忠組」も、当初はこの『近思録』を読むサークル活動から始まりました。
斉彬派の読書サークル
ただし、集まって本を読むだけの集団でないことは、『近思録』であることからわかります。
かつて【近思録崩れ】に巻き込まれた藩士のようなリスクを冒しながらも、藩政を改革したい、そんな熱い薩摩隼人が集まっているのだな、と思われたわけです。
では、このとき、彼らは何を改革するために集まっていたのでしょうか?
それは【お由羅騒動】にも絡んでくる藩の後継者問題でした。
島津斉彬を支持し、藩主交替すべきだと考える人々が集まっていたのです。
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つまり、ベースは【斉彬派の読書サークル】ということですね。
ちなみに薩摩藩では、皆で集まって読書することで、団結を固めることがありました。
郷中三大行事には『赤穂義士伝』を読む――というものがあるほどです。
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この行事は、薩摩藩士が幕末に京都で活動するようになってからも行われていました。
ただ本を読むだけではなく、途中は食事や間食をとり、内容を皆で語り合います。
中身をディスカッションし、義士の心を想像することで、自分たちの精神も高揚させていたのです。
現在の読書サークルとは種類の異なる、熱い集いだったことでしょう。
斉彬後の活動内容は?
「お由羅騒動」も斉彬の藩主就任で半ば収束。
次にサークルの面々は何を目的にしたのか?
それは、志半ばにして亡くなった斉彬の遺志尊重でした。
生前、将軍・徳川家定の後継者として、一橋慶喜の擁立を目指していた斉彬。その願いは、大老・井伊直弼によって頓挫しました。
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そこで、精忠組の面々は考えるワケです。
「憎き井伊直弼を殺さねばならん!」
これに待ったをかけたのが、新たな藩主・島津忠義の父であり「国父」と呼ばれた島津久光です。
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同じく一橋派であった水戸藩に引きずられて、マズい方向へ向かわぬよう、自らが手綱を執らねばならない――そう痛感していたのでした。
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