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【堺事件】
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戊辰戦争真っ只中の日本側は強気に出られず
時折しも戊辰戦争の真っ最中。
明治新政府の軍はほとんど関東へ行っており、話をこじらせるわけにはいきません。
もし砲撃でもされたら、堺や大坂の町が焼け野原になってしまいます。
そうなれば、佐幕派や世間が「官軍って大したことないな」と評価を下げる危険性があります。
そのため、仕方なくフランスの要求を呑むことになりました。
「フランスの言い分をそっくりそのまま呑めば、世論が攘夷に傾いて今後に支障を来す」
として、落とし所を探るべきだと主張。
こうして政府代表の外国事務局輔・東久世通禧、外国事務局掛・小松帯刀、外国事務局判事・五代友厚らがフランス側と交渉を重ねた結果、隊士全員ではなく、隊長以下二十人を処刑することで、話はまとまりました。
切腹です。
ただ、切腹となるメンバーの決め方が、現代人から見るとなかなか恐怖でして……。
切腹する者をクジ引きで決める
処刑される者の選び方は“くじ引き”でした。
隊長を含めた4人がまず死刑と決まり、他の16名は隊員の中からくじで選ぶことにしたのです。
場所は土佐稲荷神社(現・大阪府大阪市西区)。
室町幕府の六代将軍・足利義教のときもそうですが、昔はくじ引きそのものが神様の意志を尋ねるものとされていたので、必ずしもテキトーな方法ではありません。
※ただし義教の場合は、事前に将軍だと決まっていて、形式的にくじを引いただけとも
足利義教は“くじ”で決められた将軍だった?万人恐怖と呼ばれた最悪の治世
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結果、隊長の箕浦を含め、20~30代の壮年20名が決まりました。
処刑は、事件から8日経った2月23日、堺・妙国寺で執行。
フランス側からの立会は、艦長アベル・デュプティ=トゥアール以下水兵たちでした。
ここで土佐藩士たちは、最後の最後でフランス相手に意地を見せつけています。
なんと腹を切った後、自らの腸(はらわた)を掴みだして恫喝したというのです。
元々、土佐藩士たちは職務に忠実な人々でした。
彼らの横行を糺しただけ、という無念さが拭えなかったのでしょう。
フランス側の記録にあった切腹の描写
そもそも切腹で腹を切り裂き、中から臓物を引きずりだすことなど、医学的に可能なのか?
これに対し、当サイトの歴女医・馬渕まり先生は
「出血によるショックで途中で気を失う可能性は否めないが、相当な気合とテンションで乗り越えることもできる」
という趣旨の見解を切腹の記事で書かれております。
実はこれと同様のケースが、織田信長の息子・織田信孝でもありました。
信孝は腹を切った後に壁に向かって臓物を投げつけ、切腹を命じた豊臣秀吉相手に怒りの辞世の句を詠んだというものです(同じくまり先生の切腹記事に記されておりますので興味がありましたらそちらへ)。
同エピソードは否定される方も多いですが、堺事件のときはフランス側の記録があるため、おそらく事実ではないでしょうか。
トゥアール艦長もさすがにショックが大きかったようで、フランス側の死者と同じ11名の土佐藩士が切腹したところで、処刑中止を要請。
日本側もこれを受け入れ、残りの9名は助命されています。
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