1898年(明治三十一年)4月11日、版画家・彫刻家のエドアルド・キヨッソーネが亡くなりました。
これだけだと「誰?」という方も多いかもしれませんが、日本人にとっては結構重要なお人だったりします。
なぜなら明治天皇や西郷隆盛のイメージを作ったのがキヨッソーネ。
一言でいえば「肖像画を描いた」人なのです。
明治天皇や西郷のアノ写真って「肖像画」だったのか……と驚いた方もいるかもしれませんが、ともかく、なにがどうして一体そうなったのか?
キヨッソーネの生涯と作品を振り返ってみましょう。
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ジェノバ生まれのキヨッソーネ
キヨッソーネは1833年にイタリア・ジェノバの西にあるアレンツァーノという町で生まれました。
家が版画や印刷業を営んでいたので、幼い頃から親しんでいた仕事だったんですね。
美術学校でも優秀な成績を収め、22歳で教授になっているほどです。飛び級システムとかあるんでしょうか。どんだけー。
1867年のパリ万博でも銅版画で銀賞を受賞するなど、版画の世界でも十分やっていける実力を持っていましたが、縁あってドイツの印刷会社ドンドルフ・ナウマン社に出向したことがきっかけで、紙幣に興味をもつようになりました。
ドンドルフ・ナウマン社では当時、明治政府からの依頼で日本の紙幣印刷を請け負っていたのです。
キヨッソーネはこれに多少関わっていたため、日本にも興味を持ったのでしょう。
その後イギリスの印刷会社に勤めていたときに明治政府からお誘いを受けた際、はるばる来日。
明治政府では
「紙幣を作るぞ! いつまでも外注してるとお財布的にキツイ」
↓
「なら、技術を持ってる人に教えてもらって、国内で作れるようにしよう!」
という話になっていました。
そこで、かつて日本の紙幣を作っていた会社に勤めていた経験があり、版画の技術を持ったキヨッソーネに白羽の矢が立ったのですね
「陛下のお姿を遠目から描いてくれないか」
キヨッソーネに提示された給料は、現代の金額にして年間900万ほど。
この金額に惹かれて来日を決めたともいわれていますが、後々のことを考えると、彼にとってもこの決断は良かったと思われます。
来日したキヨッソーネは、大蔵省紙幣寮(現在の国立印刷局)で紙幣に使う肖像や印刷に関する技術指導を行うかたわら、日本人に西洋美術を教えていました。
その技術が評判となり、宮内庁からの依頼で、明治天皇の御真影(肖像画)を作ることになったのです。
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明治天皇は、新しい技術や文物に寛容でしたが、いくつか受け入れがたいものもありました。
そのひとつが写真です。
「欧米では貨幣に王様の肖像を使うのが当たり前」
「外国の王様と肖像を交換するのが(ry」
それを知った日本政府は、どうにか明治天皇のお姿を平面に表さなければならないと考えました。
「写真がお嫌でしたら、せめて肖像画を描かせていただけませんか」
と宮内庁が言上しても「ヤダ(´・ω・`)」(※イメージです)という、つれないお返事。
困り果てた宮内庁は、キヨッソーネに「陛下のお姿を遠目から描いてもらえないだろうか」と相談しました。
明治天皇の正装を借りて服の皺まで再現
君主の絵を任されるというのは、画家にとっては大変な名誉です。
感激したキヨッソーネは、明治天皇が芝公園弥生社(かつてあった警察官の武道場)にお出かけした際、奥の部屋からこっそり様子をうかがい、いくつかのスケッチを描きました。
さらに、宮内庁に頼んで明治天皇の正装を借り受け、自ら身につけて写真を撮り、服のしわや角度まで、より正確に再現しています。
ご本人以外で天皇の正装を身にまとったのは彼一人でしょう。
こうして出来上がったのが、今日まで最も有名なあの肖像画です。
現代で言えば合成写真といったところですかね。
絵とは思えないクオリティの高さ。
そんな彼の作品は明治天皇の他にもまだまだあります。
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