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【借金地獄の薩摩藩】
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それでも格式は全国第二位の大大名なわけで
現代人ならば、身の丈に合った生活レベルに落とすという倹約方法があります。
しかし、大名がそうするわけにはいきません。
「金がかかるので、大名行列を質素にします」というようなことは言えないわけです。
江戸時代のビッグイベント 参勤交代と大名行列は実際どんな風に行われていた?
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そればかりか太平の世が続くと、だんだんと生活も華美なものへと変貌を遂げます。時代がくだるほどに、大大名にふさわしい装い、贈答品といった生活費用もかかるようになり……ますます財政は逼迫。
享保14年(1729年)には、徳川吉宗の養女・竹姫(浄岸院)と、第22代島津家当主・継豊の縁談が持ち上がりました。
島津家としては莫大な輿入れ費用のこともあり、尻込みするのですが、相手は大奥をも味方に付けていまして、断りきれません。
これ以来、島津家と将軍家には婚姻関係が生まれました。
非常に名誉なことではありますが、相手が将軍家ともなれば毎回莫大な費用が嵩むわけです。
名誉や格式とは、金銭面からするとありがたくない一面もあるのでした。
度重なる大火も追い打ちをかけた
さらに火災も赤字を悪化させます。
度重なる江戸の火災で、藩邸が焼け落ち復興費用がかかります。鹿児島城下でも、大火が発生しました。
江戸の大火
・明暦の大火(1657年)
・元禄の大火(1688年−1704年)
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三度の大火事が江戸を襲った元禄の大火~すべて綱吉時代に起きていた
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鹿児島の大火
・延宝8年(1680年)
・元禄9年(1696年)鹿児島城本丸焼失
・元禄10年(1697年)
・元禄12年(1699年)
・元禄16年(1703年)
ほぼ毎年大火災が発生しているのではないか――という状況に加えて、薩摩では台風およびその影響による水害、土砂災害も発生するわけです。
明暦の大火では、他藩が藩邸を再建していく中、薩摩藩は着工すらできなかったそうです。辛い、辛すぎる……。
もちろん、薩摩藩も手をこまねいていたわけではありません。様々な財政再建策を行いました。
しかし……。
・海外貿易
→鎖国で打撃を受ける
・琉球との進貢貿易
→幕府の長崎貿易が成立すると、制約を受ける
・寛永17年(1640年)山ヶ野山に大金山発見!
→万治2年(1659年)がピークに減少、財政には貢献できず……
このように、いずれも財政を好転させるまでは繋がりませんでした。
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