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会津藩御預新選組
新選組が屯所としていた前川邸(→link)の雨戸には、近藤が書いたと思われる落書きが残されています。
養子の近藤周平が書いたという説もありますが、ここは近藤勇が書いたものとして、その気持ちを探ってみたいと思います。
武士として忠義を見せる――そんな決意を表す近藤が微笑ましいものです。
近藤は他人には酔態を見せず、大声で怒鳴ることもなく、周囲からは生真面目な印象をでした。
折り目正しい人柄だったのでしょう。にっこりと笑うと笑窪ができ、隠し芸に拳を入れられるほど大きな口をしていて、地味なファッションセンスであったと伝わります。
生真面目で醜貌とされた妻・ツネがいたとはいえ、近藤も美女とのロマンスを楽しんだという話も残されています。
それでも、証言の数々から折り目正しさが伝わってきます。
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そんな真面目な近藤にはやるべきことがありました。
芹沢一派や長州藩士の粛清前、近藤らは自分たちと思想面で合致する後ろ盾を得るべく、きっちりと活動をしておりました。
それが京都守護職となった会津藩への嘆願です。松平容保は、近藤らが披露する武芸の腕前を見て驚いていたと伝わります。
会津藩はどうして京都守護職に選ばれたのか?
納得のできる理由はあります。
日新館では、文武両道に秀でた藩士育成をめざしていました。特に槍術は「東の会津、西の柳河」と呼ばれたほどに有名。幕末に活躍した山川浩は、弟の健次郎がはっきりと記憶しているほど、激しい槍術の稽古に励んでいました。
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2013年大河ドラマ『八重の桜』初回でも登場した「追鳥狩」のような軍事教練もありました。
武勇のみならず、知識でも当時有数の藩でした。幕末ですと秋月悌次郎が名高く、あの吉田松陰も日新館を視察すべく会津藩に立ち寄ったことがあります。
そして、何といっても松平容保の律儀さと、保科正之以来の幕府への忠誠心も……。
と、褒めてきましたが、ここから先は不適切であった理由をあげてゆきます。
結論から言いますと、会津藩を京都守護職としたことは貧乏クジそのものであり、会津藩のみならず京都にとっても不幸なことでした。
まず、知識に偏りがあったこと。
日新館のカリキュラムにはフランス語やフランス式の教練も加えられますが、幕末も切羽詰まってからのことでした。
山川健次郎は、掛け算九九すら習えなかったカリキュラムには問題があったと、のちに振り返っています。
こうした教育は、藩の体制硬直化にもつながっていると思われます。
それ以上の決定打は、資金不足です。
幕末は、徳川藩閥体制が限界に近づいてました。
どの藩でもほぼ例外なく財政難。武士が商業に関わることが恥ずかしいという思想があり、それだけでなく人口増大や度重なる飢饉、天災への対応でもはやパンク寸前だったのです。
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時代やテクノロジーが変わり、生活環境に変化が生じれば、社会そのものの構造を変えねばなりません。
しかし、それが停滞していた。
地域の差もあります。
会津藩の場合、海がないためどうしても物流面での不利があります。寒冷な気候ゆえに凶作の影響も受けやすい。そもそも会津藩から上洛するだけでも相当な金がかかるのです。
財政難を理由として、家老はじめ藩の首脳部は何度も京都守護職を辞めるよう訴えておりました。
それでも律儀な松平容保。となると藩士が倹約せざるを得ません。
会津藩の意を受け、新選組が強引な金の取り立てをしたこともあります。
新選組はその横暴さ、汚い金の強奪取によって京都の人々から憎まれたものです。筆者も京都で「新選組な。ほんまはご先祖がえらい目にあったから嫌いや」と聞いたことがあります。
会津藩はこのことに苦い顔をしていたようで、実はそうでもありません。
新選組はむしろ会津藩の金策のために、暴力を駆使したことがあります。隊士がたばこを無断で商家からもらったところを見て、近藤が叱り付けたという目撃談はあります。そんなところもありながら、暴力金策をしていたのですから、京都の人々は厳しい目で見るわけです。
そうして得た金がなければ、会津藩は活動ができなかったのですから、深刻なものがあります。
年貢の取り立ても厳しくなり、会津藩内の領民も生活苦にあえぐこととなるのでした。
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ただ、薩摩藩の強引な借金帳消し、長州藩の特殊な会計事情を他藩が真似できたかどうかは別問題です。
彼らの攘夷活動が、損害賠償として要求され、幕府から明治政府まで財政を悪化させた経緯もあります。
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明治政府となりますと、財政問題については疎く、由利公正や渋沢栄一を起用することとなるわけです。
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程度の差はあれ、どの藩にも、財政については厳しい状況がありました。
幕末という時代は、どこがよいとか悪いとか、物事を単純に考えず、全国規模で直面した困難と改革についても注目しなければ見えてこないものもあるのでしょう。
そんな会津藩のお預かりとなることを選んだ新選組には、ロマンあふれる理由が推察されます。
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◆甲州ルーツの結びつき
→会津藩士の格式として「高遠以来」という言葉がありました。保科正之が高遠を治めていた頃から仕えてきたという意味です。
プライドがあるといえばそうですが、こうした意識が新島八重の夫・川崎尚之助のような新参者にとっては高い壁となったことは考えなければならないでしょう。
八王子同心も甲州を治めた武田遺臣をルーツとする集団です。そうした共通点あってこその結びつきというものです。
近藤が名乗った大久保大和と、土方が名乗った内藤隼人という名は、ルーツをたどると武田旧臣の名から取られているとわかります。
◆義と誠
→会津藩の忠義。幕臣として忠誠を尽くしたい新選組。そのことそのものを否定するわけではありません。
松平容保にせよ、近藤勇にせよ、律儀で誠実であろうと志していたことに疑念の余地はありません。
だからこそ「誠」の旗を掲げたのです。
会津藩と新選組の関係は、なかなか難しいものがあります。
「新選組」という組織名からして、会津藩にあった選抜エリート部隊名と一致するためという説があります。松平容保が授けたという説も。
いずれにせよ、会津藩に同名組織があるからには、無断でつけていいとは思えません。どんな経緯だったのか、特定は困難とはいえ、松平容保の厚意あっての組織であることは明らかです。
厚意の表れとして、土方歳三の愛刀・和泉守兼定があります。
11代目作と推定されており、会津に移住した刀鍛冶が作ったとされているものです。
会津藩士が佩刀として使用することが多かったため、幕末まで流通しており、そのため美術刀としてそこまで高級であるとはいえません。薩摩藩士にとっての波平のようなものです。
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ただ、会津とのゆかりを考えるとなかなか味があります。
猪苗代湖畔で採取した鉄も使われていたとされるのです。
まさしく会津の誇りが詰まった刀(※会津兼定は展示機会も割とありますので出来れば本物を御覧ください)。
会津藩士が愛用するものと同じ刀ですから、これもやはり松平容保の配慮あってのものでしょう。
それがどういうわけか“ノサダ”、二代のものとされ、認識されていた時期があります。司馬遼太郎氏の創作です。
安値の会津兼定よりも、レアで大名でも持っているようなものにしたいという、ロマン願望ゆえでしょう。
近藤勇の虎徹、沖田総司の菊一文字、斎藤一の鬼神丸、討幕派の村正にせよ、新選組隊士がそんなレアものを所有していたとは考えにくいものがあります。
ましてや美術的に高い刀剣を、実戦では使用しない。ロマンはロマンとして楽しみましょう。
むしろ、会津兼定をふるう土方からは、会津藩との繋がりを感じられるものです。
※『刀剣乱舞』でおなじみです
運命の【池田屋事件】そして「一会桑政権」の懐刀として
会津藩の御預となったとはいえ、近藤以下、隊士には不満が渦巻いていました。
京都の見廻りという任務は、同心と同じもの。尊王攘夷と言い切れるのか? そう鬱屈してしまうのです。
隊内では同性愛をめぐるトラブルもあり、近藤は焦りを感じていました。
薩摩藩の男色は結束を高めるものでありましたが、関東出身の近藤らにとっては頭痛の種なのです。
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そんな隊の状況を変える事件が起こります。
新選組について考えてゆくと、ややこしいことがあると散々書いてきました。
そのひとつ【池田屋事件】です。
なまじフィクションで盛り上がるため、この事件のみを取り上げて、前後の状況が疎かにされてしまいがちではあるのです。整理してみましょう。
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この事件は文久3年(1863年)から元治元年(1864年)、【八月十八日の政変】と【禁門の変】の間に挟まるもの。
【八月十八日の政変】
↓
【池田屋事件】
↓
【禁門の変】
近藤らが組織を作り始めた頃から、種は撒かれていたのでした。
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そこには、孝明天皇をめぐる各勢力の抗争がありました。
幕末において、天皇の意思を握るという点において、イニシアチブを取ったのが長州藩です。
毛利家は地理的にも、血統的にも、歴史的にも、天皇家に近い大名であるというプライドと認識がありました。
松下村塾生が藩内で活躍すると共に京都で活動を行い、【奉勅攘夷】(=天皇の意思を掲げて攘夷をする)という大義名分を得て、勢力を増していたのです。
ただ、この路線には大問題がありました。
掲げる“勅”が、孝明天皇本人の意思と関係ないものだったのです。
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なんてことを申し上げれば、頭が混乱してしまうかもしれません。
勅とは天皇の意思であるはず。
それが関係ないとは、もしや勅は偽造できも可能ということか?
そうです。
長州藩は、公家を抱き込めば偽造も可能だと理解していました。
確かに孝明天皇は海外情勢に疎く、攘夷に賛同してはおりました。しかし【公武合体】が功を奏したこともあり、幕府と協調路線を歩んでいきたいというのが本音。
和宮本人も、孝明天皇も、家茂には好感を抱いておりました。
孝明天皇は、松平容保のことも大層気に入っておりました。
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そんな折、覚えのない勅が出されるのですから不愉快きわまりないこと。
そこで会津藩と薩摩藩に発生源である長州藩の排除を頼んだ結果が【八月十八日の政変】であり、それに納得できない長州藩士らが武力で訴えたのが【禁門の変】でした。
【池田屋事件】は両事件の合間で発生、新選組が武力討伐に動いた事件です。
【禁門の変】で大火災が発生したことを考えれば、新選組側の事件予防という釈明も筋が通っているとはいえます。
土方歳三の「残虐な拷問が行われた」という話も有名ですよね。
これは何も【池田屋事件】だけで起きた話ではなく、そもそも新選組の容赦ない取り調べが史実なのです。連行された人物の遺書も残されてます。
沖田総司が昏倒するほどの激戦。天然理心流の剣は、容赦ないほどの殺戮をもたらしました。
薩摩ジゲン流による屋内戦闘でも、凄惨な結果が出ております。
幕末最強の剣術は、
・東の天然理心流
・西のジゲン流
という認識でよいのではないでしょうか。
【池田屋事件】と【禁門の変】の出動を経て、新選組の印象が決定的となったことは確かなのです。
得体の知れない、柄の悪い浪人ども。壬生をうろつく狼。野暮ったい浅葱色の羽織を着た、貧乏くさい関東訛りの連中。洗練された長州藩士の対極にある、忌々しい連中。
そんな新選組像は、変貌してゆきます。
隊士すら嫌がっていた浅葱色の羽織は完全廃止されたわけではありませんが、元治元年(1864年)ともなれば黒装束がむしろ定着していました。
あの羽織は当時のデザインセンスとしては最低の部類に入るもので、隊士でありながらも嫌う者が多く、一度も袖を通していない者も少なくなかったとか。
現在はイメージカラーとして定着していますが、当の本人たちからすれば嫌なはずです。
政治権力と武力を持つ組織へ――。
それは近藤勇にとっては、輝かしい達成感を伴ったことでしょう。永倉新八ら隊士は、このときの興奮を記録に残しています。
会津藩にとっても、超法規的な警察組織は使い勝手のよいものではありました。新選組の残虐な行為は、会津藩の許可あってのものです。前述したような麗しい結びつきだけでは、語れないものがあるのです。
ただ、これは京都で暮らす人々と敵対者にとっては、決定的な悪意と結び付けられることでもありました。
【禁門の変】の年というのは、幕末の長州藩にとってはドン底。“薩賊会奸”と草履に書いて踏みつけ歩く、そんな辛い日々。
孝明天皇を政治権力として持ち上げた結果、天皇の好悪によって政権が動き始めます。
これが決定打となるのは、若く純粋な家茂が病気がちである中、政治力抜群である徳川慶喜が政治的な要職についてからのことです。
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長州藩によって【禁門の変】が起き、その結果の大火災「どんどん焼け」にしたってこうなります。
「会津のせいや、壬生狼のせいや!」
2013年大河ドラマ『八重の桜』では、焼け跡を見回るヒロインの兄・山本覚馬が罵倒され、呆然とする場面がありました。
一方、2015年大河ドラマ『花燃ゆ』では、京都に大火災をもたらしたヒロイン夫・久坂玄瑞が悲劇の象徴として描かれていました。
それと共に「それでも京都の人々は長州贔屓だ!」とも描かれていたのです。
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ドラマそのものの出来はさておき、当時の京都を象徴する出来事ではあります。
加害者である長州をかばう京都の民は何なのか?
これも財力問題なのです。
前述の通り、会津藩と新選組は慢性的に資金がありません。飲み会や芸者遊びなんてもってのほか。
一方で長州藩はそれができる。
金払いがよいし、西日本であるし、なんだか熱気もある。そうなれば、応援したくなるのが人の性というものでしょう。
人間の好意と、それが正しいものに対するものであるかどうかは、分けて考えねばならないということです。
【長州征討】の空転
この歳の秋から冬にかけて、近藤勇は江戸へと戻っています。単純な里帰りと捉えると、話がわかりにくくなります。
政治的な目覚めがありました。
近藤は、周平という養子を取ろうとします。この周平は谷家の出身で、谷三十郎の弟にあたります。老中・板倉勝静(備中松山藩・第7代藩主)のご落胤(私生児)を谷家が引き取って育てていたという説も。
真偽はさておき、谷家と板倉家には何らかの関係があったようです。
近藤としては、養子縁組により、有力政治家である板倉家と縁故を結びたい気持ちがありました。
【禁門の変】を受けて、孝明天皇は長州藩に同情するどころか激怒。長州の武力討伐を願ったものの、政治的な齟齬が生じ失敗に終わっています。
二度目はない、絶対にやらねばならないという認識が、生まれつつありました。
幕府も混迷の政局に、天皇や朝廷を引き込んだことを悔やんだことでしょうが、やらないわけにはいかなかったのです。
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近藤は、ブレーンである武田観柳斎らを伴っていました。永倉新八も同行しています。
剣術は強くとも、政治的な発言力はなさそうな永倉がどうしてそうなったのか? これには彼が松前藩出身であることに関係があります。松前崇広が幕閣にいたからなのです。
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もはや、孝明天皇の怒りは収まらない。将軍を上洛させ、長州を叩きのめすことなくば、事態は収まらないだろう。そう説得にあたらねばなりません。
ここにも不幸な状況がありました。
孝明天皇の怒りは、長州藩だけに向けられているわけではありません。諸外国に対し軟弱な対応をし、条約を結ぶ幕府には攘夷をするつもりがないと、怒りを募らせていたのでした。
しかし、幕府からすれば冗談ではありません。
もう、攘夷だのなんだの言っている余裕はないのですから。
せめて長州をなんとかせねばならない。そういう大事な使命を帯びて、近藤らは東へ向かったわけです。
幕閣で存在感を見せていた永井尚志は、近藤のことを高く買っていました。それゆえ、大役が回ってきたのですが、近藤にとっては荷が重い。失敗したという面もあることは確かでしょう。
ただ、それ以上に新選組のイメージが悪化しすぎていました。もう、長州藩は新選組の意見を聞くことはありえないのです。
そんな役目を帯びている近藤は、武田のようなブレーンの助けも得ながら、それだけ教養や政治力もあったのでしょう。そういう知性を無視されて、狡猾な悪役扱いをされる武田も気の毒なのです。
しかし、近藤の政治力には限界がありました。
いや、幕府そのものが方向性を見失っていったとされるのが【長州征討】の失敗です。
外様大名をおとなしくさせられない。幕府権威は崩壊した――そんな転機がそこにはありました。
長州征討の失敗は、高杉晋作らの活躍が強調され、ともかく電撃的なドラマとして描かれます。
しかし、そんな単純な話でもありません。
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それはなぜなのか?
孝明天皇の信任を背景にした【一会桑政権】から、島津久光率いる薩摩藩は後退を余儀なくされました。
薩摩藩はかつて【将軍継嗣問題】における一橋派として慶喜を推していたにも関わらず、いざ慶喜将軍が実現すると政権から排除されるという、耐え難い侮辱に見舞われたのです。
となると、薩摩はどうすべきか?
敵対し、険悪な仲であった長州藩と手を結び、イニシアチブを取り戻すしかない。
それが【薩長同盟】でした。
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この同盟は討幕のためのものではなく、薩摩にとってはいかにして権力を取り戻すかという性質を帯びています。
新選組とて、政治と無縁ではいられません。けれども、政治にそこまで積極的に関われるわけでもない状態でした。
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