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新選組の分裂と悩み
【池田屋事件】と【禁門の変】を経て、新選組は長州藩から好かれることはありえません。
不倶戴天の敵となりました。
幕末のことを調べていると、新選組がいかに便利な存在であったかがわかります。志士を支えた女性の逸話を見ていると、お約束があります。
「ある女性が新選組に連行された。しかしその堂々とした態度に、あの近藤勇すら感服し、釈放したという……」
真偽はどうなのか。いくらなんでも志士の彼女は新選組に捕まりすぎなのではないか?
似たような話が多くてもう何がなんだかわからなくなってきます。
徳川家康が恐れた存在。豊臣秀吉が惚れた女性。こうした逸話のように「新選組に捕らえられた女」もパターンとして定着していると思えるのです。
そういうネタのような前置きから始まりましたが、新選組は“共通した敵”とされるだけの存在感がありました。そもそも警察組織である以上、反権力者にとっては大敵なのです。
しかもその敵は、隊の内部にもおりました。
新選組は、世直しを掲げた浪士組が母体です。
曖昧な動機によって人を集めたため、近藤勇や会津藩と方向性が一致しない隊士が当然出てきてしまいます。
その一人に、山南敬助がおります。
山南の死はフィクションでも見せ場でありますが、それだけではない重要性がありました。山南は試衛館時代からの最古参であり、それが切腹にまで追い詰められるのはかなりの事情が考えられるのです。
新選組の隊規の厳しさは有名です。
尊王攘夷という世直しを掲げた集団ならば、様々な人員が集まる――その覚悟を示すためにも、初期から脱走者を死罪とするほど厳しい規則があったのは、必要悪とも言えました。
ただ、初期の頃は、厳しくとも実態は伴ってはいません。
新選組にせよ、会津藩にせよ、幕末の京都では新参者であり、組織規模としても小さなものでした。隊の初期では、脱走をしても逃げ切れる可能性は結構高かったのです。
それが【一会桑政権】が確立してしまうと、変わってきます。
脱走はできないうえに、しようものならば逃げきれない恐ろしい状況となっていくのです。
新選組は、組織として変貌しました。
なまじ政治力がつき、会津藩と同じ主張をする方向性が強固となったため、それについていけない者が出てくる。
敵も増えすぎてしまった。
隊規拘束力は強まってゆく。
東西の格差。全国規模で隊士を募ると、意見に温度差が出てきます。
その典型的なものが、将軍への忠義を第一とする東と、天皇や寺社勢力に重きを置く西です。出身地の東西のみならず、どうしたって集団や個々人によって違いが出てきます。
試衛館時代は遠くなりました。皆で、異人を切って将軍に尽くしてやろうと語り合っていた頃は、もう程遠い。
会津藩と新選組の距離が近づけば近くほど、西国諸藩の思想的な流れを汲む者たちはついていけなくなる。新選組は業務上の欠員が出てくる。
このご時世では、組織の層は厚くしなければいけないのに、そう簡単にはできないのです。
新選組の歴史とは、組織が直面する矛盾を孕んでいます。
力を増すためには、構成員を増やす必要がある。しかし、構成員を増やすと統制が取れなくなる。
彼らの斜陽は、会津藩と一致していました。
会津藩は財力もなく、策謀にも長けておらず、孝明天皇からの信頼だけが頼りでした。
それが【長州征討】に挫折し、慶応2年(1867年)末に孝明天皇が崩御すると、みるみるうちに会津藩の勢力は衰えてゆきます。
新選組もその影響を受けるのは当然のことでした。
この孝明天皇崩御の直前、新撰組の歴史でも凄惨な事件とされる【油小路事件】が発生しています。
近藤勇と対立した御陵衛士の伊東甲子太郎らが殺害される事件であり、伊東は腹黒い描かれ方をされますが、その主張は原点回帰ともいえるものでした。
彼の掲げた「御陵衛士」とは、孝明天皇を守るべきであるとする理念があります。新選組では古参の部類に入る藤堂平助が賛同したとしても、それはまっとうなことではあるのです。
そしてこのあたりに、ややこしさが出てきます。
伊東らは、長州藩への寛大な措置を願っており、それが近藤と不一致であった――新選組と長州藩の厳しい対立構図を踏まえれば説明できるようで、ややこしいものが出てきます。
繰り返しますが、長州藩を嫌い抜き、討伐せよと訴えたのは孝明天皇です。
本当に孝明天皇の意思を尊重するのであれば、むしろ長州は征伐すべきということになります。
ここは、伊東の国家論を検討しなければならないのですが、残された史料から見えてくるものもあります。
◆伊東甲子太郎の国家論
幕府、朝廷の対立軸を横に置く。
どちらも勢力を保ちつつ、国家が一丸となって困難に立ち向かうべきだ。
そうなれば長州のような一勢力を討伐すべきではない。むしろ長州のような外様も含めて、日本が一致団結していかねばならない!
ゆえに、長州を討伐するのは愚策なのだ!
実は、同様の理論を唱えていた幕末の人物は、他にもいまいた。
彼らは武力倒幕に反対し、その過程で暗殺されてゆきます。
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幕末から明治にかけての不幸は、後世からすると「正論だと思える理念を掲げた人間が凶刃に倒れている」ことでしょう。
伊東の粛清は、新選組の凶暴性だけでも説明できません。
坂本龍馬暗殺の支持者は、松平容保であると確定しています。
内戦回避の大きな国家論は、会津藩やその傘下の新選組でも受け入れられるものではなかったのです。
伊東と坂本龍馬の思想は、近いものとして後世認識されていました。
龍馬が伊東に助言をしていたという逸話が、真偽不明ながらも明治以降流布されていました。おそらく創作ではありますが、それでも思想的に近いと認識されていたことは重要です。
伊東は、その教養と先進性ゆえに構想が一致せず、粛清の憂き目に……そして彼の同志も、まとめて始末されることになりました。
先に殺害した伊東の死骸を囮にして粛清する。それが凄惨極まりない【油小路事件】でした。
こうした混沌と粛清は、新選組だけでもありません。
薩摩藩を見てみますと、幕末から明治にかけて常に政治の中心にあり、【西南戦争】まで【藩閥政治】でも日本を動かしていた勢力です。
一枚岩でもなく、主張は二転三転。しかもそれが周囲からはわかりません。
前述した通り、【長州征討】の挫折は、薩摩藩が消極的な対応をとったことが大きな原因としてあります。
長州に寄り添っていたことを見抜けないほど、幕府は信頼しきっていたわけです。
かように政治権限を取り戻すことに傾注していた薩摩藩は、幕府を倒すことで新政権樹立ができると考えていました。
そこで武力を用いるのか。
政治交渉だけにするか。
ここが判断の分かれ目でした。
薩摩藩内で指導にあたり、武力に頼らない倒幕路線の提唱者であった赤松小三郎は、暗殺された上にその事実すら厳重に隠蔽されています。
一方、新選組が行った粛清が白日の下にさらされ批判されるのは、薩摩藩や長州藩のように隠蔽ができなかったことも重要でしょう。
敗北し、京都から江戸へ
【油小路事件】は、御陵衛士を始末しきれなかった事件でした。
被害に遭わなかった御陵衛士は、新選組幹部の殺害を計画。標的とされたのは、肺結核を発病していた沖田総司と、局長である近藤勇です。
沖田襲撃は未遂に終わったものの、近藤は違いました。
慶応3(1867年)の暮れのこと。二条城からの帰り道、屯所を目指していた近藤は狙撃され負傷してしまうのです。
負傷した近藤に代わって土方が隊内をまとめる中、事態は急変してゆきます。
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慶応4年(1868年)――江戸幕府最後の歳が明けます。
年明けから【鳥羽・伏見の戦い】が勃発して、新選組は大敗。
土方の「もう槍と刀の時代ではない」という言葉が伝わるためか、新選組が洋式調練をしていなかったかのように誤解をされますが、そういうことでもありません。
新選組は洋式調練、豚の飼育等、新時代に向けた体制構築の努力をしていました。
では新選組はじめ、幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで大敗した理由は何なのでしょうか?
◆薩長側には【錦の御旗】があった
正統性としては疑わしいとされているものではあります。効果も立場や思想によります。
ただ、勤皇思想にあつい徳川慶喜に対しては効力を発揮しました。
慶喜は朝敵にだけはなりたくなかったのです。
◆徳川慶喜の撤退
総大将に戦意がないからには、勝てるわけもありません。
◆薩長側には資金源があった
→もしも戦闘が勃発したとしても、資金が不足するという見立てはありました。
薩長側は三井家をはじめ、大商人を味方につけることで解決します。
◆薩長側にはイギリスの支援があった
もしも戦闘が勃発したとしても、武器が不足するという見立てはありました。
しかし、薩長側の背後にはイギリスがついていたのです。幕府側にもフランスの支援はありました。
英仏の代理戦争のような側面もあったのが、幕末最終決戦でした。
外国人排除を掲げる攘夷が重大であったはずの局面が、こうした形に落ち着いたのですから皮肉なものです。
来日外交官が親日的であったとか、青い目のラストサムライであるといったロマンチックな評価はあります。
そういう綺麗な話でもなく、英仏代理戦争の側面があります。
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幕府側にも、海軍力のような優位点はありましたが、慶喜の戦意喪失という根本的な大問題があってはどうにもなりません。
慶喜は大変なことをやらかしました。
大坂城から脱出し、嫌がる松平容保まで伴って、海路江戸へとひきあげてしまったのです。
このことがどれほど苦く、痛烈な一撃であったか。
会津藩の家老であった山川浩は、若輩者でありながら大坂城代を任されたと冗談めかして後年振り返っております。
しかし当時は絶望しきっており、どうにもならないと嘆いていた姿が目撃されています。
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新選組の凋落と、近藤勇の狙撃を結びつける推察もあります。
武士として剣術では戦えない。ただし、これも近藤の将としての過小評価につながりかねないのではないかと考えてしまうのです。
指揮官として立つのであれば、個人的な戦闘力があるかどうかはまた別の話です。
甲府へ出陣せよ
江戸にたどり着いた新選組隊士たちは、傷の療養や休息をすることとなりました。
遊郭に出かけてゆく隊士もおりました。
当時の江戸では、薩長への反感と憎悪を募らせ、将軍様と戦う者を遊女たちも熱心に歓迎しておりました。
京都では嫌われていた新選組ですが、江戸では愛すべき存在であったのです。
ただ、彼らを歓迎しない者もおりました。
勝海舟です。
【無血開城】のイメージが先行しがちであるためか、勝ははじめから無抵抗であったかのように思われがちですが、そういう単純な話でもありません。
圧倒的な海軍力がほぼ無傷で残されており、幕府に勝算が全くなかったわけでもないのです。
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西郷隆盛は赤報隊を率いて、江戸を戦火に引き摺り込むべく、強引な策をめぐらしていました。
モスクワでナポレオンを大敗させたロシアを参考にし、江戸の町火消しを動員した焦土戦術を企画していた形跡もあります。
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勝は幕臣です。
幕臣であるからには、主君である慶喜の首を守り抜き、その意を実現させなければなりません。
イギリスやフランスとしても、市場となる江戸を壊滅させたくないし、徳川慶喜の殺害も避けたい。
そこで抜群の説得力を発揮したのが、勝の前に西郷と交渉をかわした山岡鉄舟でした。
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ありとあらゆる手を使い、江戸での戦争回避に動く勝海舟、それに同意する西郷隆盛――そうまとめてしまえば極めて綺麗な歴史ができあがるわけですが山岡の事前交渉という出来事を忘れてはならないでしょう。
そもそも武力倒幕は、当時の味方からも下策とされていたにも関わらず、西郷らが強引に推し進めたこともありました。
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それでも【上野戦争】は勃発しており、まだまだ流血は続きます。
勝海舟は納得できたとしても、こんな幕切れは恥そのものであると抵抗の意思を見せる幕臣は多数おりました。
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抗戦までせずとも、こんな恥ずかしいことがあってたまるかと、明治以降も筆誅を加え続けた人物として、福沢諭吉もあげられます。
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こうした抗戦を選んだ幕臣の中に、他ならぬ近藤勇も挙げられます。
忠臣の最期
勝海舟にとって、新選組はともかく消えて欲しい存在ではありました。
【池田屋事件】以来、宿敵としての悪名は決定的なものとなっており、彼らがいる限り長州からの敵意は消えません。
そこで編み出された秘策が【甲陽鎮撫隊】でした。
甲府を抑えることを目的としていたことから、そう命名されており、このとき近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と改名しました。武田旧臣由来の名前とされております。
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八王子同心のルーツを考えれば、甲府進軍は名目としても成立します。
他にいくつかの変化も出てきました。新選組の指揮系統に、変動が見られるのです。
甲陽鎮撫隊をめぐっては、永倉新八と原田左之助が離脱したことが知られています。
生存した永倉側の証言からは、近藤勇の増長が原因だと解釈されます。永倉は「武士は二君に仕えず」と啖呵を切って袂をわかったとされていますが、ことはそう単純ではないでしょう。
甲府への出兵も、フィクションのイメージにより、わかりにくくなることがあります。
近藤らは、自分たちの故郷に立ち寄ってから甲府を目指します。幕臣になったと浮かれ騒いで無駄な寄り道をしたために、甲府への着陣に遅れが生じたと解釈されるものです。
個人的な話と前置きして書きます。
以前、新選組ファンの方が、苦々しい口調でこう言うのを聞いた記憶があります。
「近藤勇も、浮かれたのか、油断したのか、狙撃で判断力が鈍ったのかもしれないけど。甲府に遅れるなんてガッカリだよ。馬鹿としか言いようがないというか……」
この意見は結果論でしょ……という見方もできるわけですが、それ以外にもっと複雑な事情があったと思われます。
近藤勇は、新選組から甲陽鎮撫隊を指揮する過程において、会津藩の下部組織ではなく、幕臣とされたのです。
ところが永倉たちの意識からすれば、それがわからない。あくまで自分たちは会津藩主を主とするとなるのです。
そうした混乱の中で【甲州・勝沼の戦い】において甲陽鎮撫隊は大敗を喫してしまいます。
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敗因は何だったのか?
近藤勇の指揮能力が低い、というのも疑念が湧いてきます。
当時の社会情勢は極めて混沌としており、人員も物資も不足。集めたい農兵は離脱する。会津藩は援軍を送るどころでもない。
戦闘があまりにアッサリしすぎているため「ゆかりの地を犠牲にしたくない」という近藤が敢えて戦闘を避けたという伝説も、地元には伝わっているそうです。
兎にも角にも、近藤勇はその後、流山まで落ち延びます。長岡に陣営を構えたのです。
が、程なくして彼は投降を決断するのでした。
この場面も、フィクションでは劇的に描かれます。
土方が必死で止める場面は盛り上がりますよね。しかし、そのために史実がわかりにくくなっている。
大久保大和という名前が、まるで雑な身分偽装の象徴のように思われます。
しかし前述の通り、甲府奪還を目的とし、八王子同心としてのルーツを踏まえての改名であれば、目的は違って見えてきます。また、そもそも幕末は近藤のみならず、多くの人物が頻繁に改名しています。
騙されての投降ということも、そうとも言い切れないものがあります。近藤勇は、自らの命と引き換えに隊士の助命嘆願を願っていたということもあるのです。
幕末の助命基準は、実に混沌としています。
戦国時代であれば、総大将が切腹することによって、配下の将兵や民の助命をすることがありました。
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それが江戸時代を通して、主君の首を何がなんでも守ることが、武士道として定着していたのです。
近藤勇の首と引き換えにした嘆願は、戦国時代までさかのぼった「武士の意識」という解釈ができなくはありません。
総大将が抵抗を放棄すれば許すということも、慣例としてはあります。
【長州征討】にしても長州藩に一切の損害がなかったわけではありません。藩主ではなく家老の切腹という処置が取られているのです。責任者の死による処断が当時は当然のこととしてありました。
近藤が、隊士を守るために命を捨てる選択肢があったとしても、何ら不自然ではないでしょう。
しかし、待ち受けていた運命はあまりに過酷でした。
4月25日(新暦5月17日)に板橋庚申塚で斬首処刑されると、首は板橋刑場に晒され、そこに葬られたのです。
享年35。
この近藤勇の斬首は、当時の慣習としてもやり過ぎの感はあり、この先続く【戊辰戦争】への悪影響も見逃せません。
会津藩が徹底抗戦を選んだ理由として、松平容保の首を要求されたことがありました。
容保は既に喜徳に家督を譲り、隠居を願い出ていたにも関わらず、首を要求されたのです。
武士の誇りを賭けて戦わねばならない状況に追い込まれた上に、近藤勇の処刑状況もあわせて考えると、混沌とした状況がわかってきます。
会津藩やその会津藩を救うべく動いた【奥羽越列藩同盟】は、愚かさの象徴のように言われますが、そう単純なものでもありません。
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主君が斬首された挙句、罪人のように晒し首にされたら、もはや武士としてどうしようもない。
そうなるくらいならば徹底して戦おうと、会津藩の老若男女が思いつめても仕方ないことでした。
ともかく第二の近藤勇になることは、避けねばならない。誰もが徳川慶喜ほど柔軟になりきれず、奥羽を巻き込んで戦火は拡大してゆきます。
肺結核で療養する沖田総司は、死の直前まで近藤勇狙撃犯を斬ると願っていました。そんな彼に、近藤が晒し首にされたとは、決して言えません。
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近藤勇の後継者として、幕臣となった土方歳三の戦いは続きます。
大鳥圭介、榎本武揚らと合流して、五稜郭まで駆け抜け、戦死を迎えるのです。
かつて永倉と原田がそうしたように、斎藤一は土方と別れました。
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会津藩への忠義であると解釈される斎藤一の行動ですが、幕臣として戦うのか、あくまで会津藩御預かりとして戦うのか、解釈の違いがあったと考えることもできます。
斎藤は明治以降も会津藩しとしてのルーツを貫きます。
会津藩士の女性と結婚し、山川浩・健次郎兄弟、佐川官兵衛らと親交を保ち、会津に墓を作らせました。
原田左之助は、彰義隊の戦闘に巻き込まれて戦死。
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永倉新八は同志とともに会津へ向かうものの、激しい戦闘のために城まで辿り着けず、無念の思いとともに抵抗を断念します。
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新選組は、甲州勝沼へ向かう前に分裂したとされます。
それは近藤勇一人の責任だけでもなく、それぞれが武士道を求めた結果ともいえるのではないでしょうか。
近藤勇の武士としての誇りは、辞世によって現在も伝わっています。
【辞世】
孤軍援絕作俘囚 顧念君恩淚更流
一片丹衷能殉節 睢陽千古是吾儔
嘛他今日復何言 取義搭生吾所尊
快受電光三尺剣 只将一死報君恩
孤軍援(たす)け絶えて俘囚となり 君恩を顧念して涙 更(ま)た流る
援軍が尽きて孤立し捕虜となった 君恩を思えばまた涙が流れる
一片の丹衷 よく節に殉じ 雎陽(すいよう)は 千古これ吾が儔(ちゅう)
ただ自分の誠意によって節義に殉じよう 張巡(字・雎陽、【安史の乱】で奮闘し戦死唐の忠臣。南宋の伝説的な忠臣・文天祥の『正気歌』をふまえている)こそ、私の同志であった
他に靡きて今日また何をか言はむ 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶところ
他の勢力に屈したら何を言えるのだろう? 義を選び命を捨てるのは、私が尊ぶところなのだ
快く受く電光三尺の剣 只(ただ)将(まさ)に一死をもって君恩に報いん
斬首の刃を快く受けようではないか この一命を持って君恩に報いるだけである
武士となるべく身に付けた漢文の教養を駆使した、志にあふれる辞世です。
なお、この漢詩はもとは前後に分かれていたものを組み合わせたのか、押印や語句の使い方に少しおかしなところがあります。伝わる際に間違った可能性があります。
関羽にあこがれ、「誠」を掲げた近藤勇らしい志にあふれているのです。
★
様々なフィクションにおいて、集団単位で人気があるといえば、何と言っても新選組です。
大河ドラマからスマートフォンのゲームでまで、彼らは常に取り上げられてきました。
試しに『松下村塾、精忠組、海援隊でゲームはないのかな?』と調べたこともありますが、所属員がキャラクターとして登場することはあっても、集団そのものはテーマにならないようです。
新選組は、幕末フィクションにおける象徴となりました。
そして皮肉にも、彼らの青春群像路線は、彼らの敵である側に流用されるようになっていきます。
大河ドラマ『花燃ゆ』は「幕末男子の育て方。」と掲げました。『西郷どん』も、ボーイズラブを推奨すると宣伝されたものです。しかし、どちらも狙いを外しています。
こうした状況を見ていると、新選組という集団は、人々の心を惹きつけるという点では勝利を収めております。
福沢諭吉は、戦ってこそ、痩せ我慢してこそ、三河武士の忠義は保たれたはずだと嘆きました。
【無血開城】は、武士そのものを破壊したことだと怒りをこめたのですが、福沢のこの思いは本人ではなく、新選組によって叶えられたのではないかと思えるのです。
太平洋戦争敗北まで、新選組を肯定的に描くフィクションはありえないことでした。そんな長い年月と政治状況を経過しても、彼らは色あせることなく、現在までその生き方を見せつけています。
土方が会津・天寧寺に建てた近藤勇の墓。
永倉新八が板橋に建てた近藤勇の墓。
どちらも参拝客が途切れることはありません。板橋の墓にはノートが置かれ、新選組の生き方に感銘を受けた人々が熱い思いを書き込んでいます。
彼らを突き動かすフィクションの力は偉大です。
新選組の記事が読まれるのは、偉大なフィクションありきであることは、決して否定できないところではあります。
しかし、功罪もあると痛感したのが、近藤勇の記事でした。
フィクションの印象を取り払うことを、近藤勇以下、常に意識せねばならなかった。
この長い本稿を書いて痛感したのは、近藤勇はフィクションのイメージにより、過小評価と誤解をされているということです。
智勇にあふれ、豪農三男坊から幕臣にまで到達した近藤勇。
彼も幕末の典型的な一青年であり、確かな才能に恵まれておりました。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
宮地正人『歴史のなかの新選組』(→amazon)
松下英治『新選組流山顛末記』(→amazon)
平野勝『多摩・新選組紀聞』(→amazon)
大石学監修『新選組の時代』(NHK出版)
『図説新選組クロニクル』(→amazon)
『新選組大人名事典』上下(→amazon)
他