関羽

中国・関公義園にあった関羽の巨大銅像/wikipediaより引用

関羽は死後が熱い!「義」の代表が「万能の神」として崇敬されるまでの変遷

中国は蜀の名将・関羽――。

三国志好きなら今さら説明するまでもないビッグスターであり、歴史に全く興味のない方でも、中華街に足を運んでいれば一度は目にしたことがおありでしょう。

「赤や黄色に彩られた、ド派手なお寺の中にいる、真っ赤な顔に長い髭のおじさん」

そう、その人です。

彼のことを、横山光輝三国志で、好きになられた方も多いでしょう。

あるいは蒼天航路の不思議な表情に、うっすらと恐怖を覚えた人もおられるかもしれません。

そして、歴史の書籍をたしなみ、少しずつリアルな史実に触れてくると、ちょっとした疑問も湧いてくるかと思います。

関羽って、実際はどんだけ凄かったん?

残念ながら、正史『三国志』における「関羽伝」の表記は千文字以下と言います。

武将として心身共に強く、劉備にとっては唯一無二の存在であっても、史実における中国代表の名将とまでは言えないのでは……。

今回は『関羽: 神になった「三国志」の英雄 (筑摩選書)(→amazon)』を参考に、真の姿へ迫ってみたいと思います。

 


北の異民族が怖い! 困った時の関羽頼み!

中国史に興味はないけど、三国志は好き――という方は日本にも多いと思います。

三国鼎立という対立構造が面白いといった要素も大きいですが、その魅力は、長いこと語り継がれ、物語としてアレンジされてきた要素が影響しているでしょう。

最終的に同時代は、魏の三国統一によって終結します。

三国鼎立といっても、この中で一番小さく弱い蜀は、天然の要害に守られた地方軍事政権といったところ。建国者の劉備は漢王朝の末裔を自称していたとはいえ、その真偽も定かではありません。

どう冷静に考えても、蜀が正統とは言えないはずです。

『資治通鑑』といった史書でも、魏の元号が採用されていました。

しかし、庶民の間ではそんなことはお構いなし。

とにかく人気があるのは蜀。

三国時代の物語は「説三分」というジャンルに分類され、講釈師によって語られる人気のテーマでした。子供たちは蜀が勝てば歓声をあげ、魏が勝つと悔しがったのです。

北宋(960〜1127)の時代、関羽の人気はエンタメ作品にとどまらなくなります。

北方の女真族に圧迫される中、漢民族は女真族を魏とし、自分たちを蜀に重ねるようになりました。

北宋最後の皇帝である徽宗(『水滸伝』に出てくる遊び好きの皇帝です)は、民衆の関羽人気に注目。彼の武勇にあやかり、国家の守護神とするため、忠恵公、武安王、義勇武安王に封建したのでした。

しかし、関羽の神通力では北宋を守りきることはできず滅亡し、徽宗は北方に連れ去られてしまいます。

徽宗の弟・高宗は南に移り、南宋が再興されました。

南宋の人々の間では、次第に北を懐かしむ気持ちが高まってゆきます。そんな心理の中、追い詰められても果敢に戦った関羽像はさらに魅力的なものとなっても何ら不思議はありません。

南宋の儒家である朱熹(朱子)は、「蜀漢正統論」を確立。南宋が滅んだあとの元は、朱子学を科挙の基準としました。

官民ともにもはや魏を正統とみなすことはなくなり、『三国志』の著者である陳寿に対して「蜀の記述が薄すぎ。個人的怨恨でもあるの?」というツッコミが入れられたりします。

 


「義」の理想像としての関羽

しかし元代に至るまで、フィクションにおいて人気があるのは、関羽より張飛や諸葛亮でした。

張飛はトリックスターという、その場を引っかき回し大暴れする役割です。

型破りで暴れる様が爽快で、見ていてスカッとさせる効果があります。『西遊記』の孫悟空や『水滸伝』の黒旋風・李逵、『封神演義』の哪吒と同じタイプでしょう。

諸葛亮はともかく魔術的な働きが凄い。

三国志ファンなら説明不要の魅力です。

※以下は諸葛孔明の考察記事となります

諸葛亮孔明
「待てあわてるな」日本人は天才軍師・諸葛亮(孔明)をどう見てきたのか

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元末から明代にかけて、羅貫中という文人がいました。

彼は『三国志平話』等、当時流通していた三国志関連の物語をまとめて『三国志演義』を書きました。

三国志演義
『三国志演義』は正史『三国志』と何が違うのか 例えば呂布は美男子だった?

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ただしこの作品は彼一人が手掛けたものではなく、この『演義』から関羽像がより洗練されてゆきます。

『演義』の執筆や編集を担当した文人たちはこう考えました。

「荒唐無稽な登場人物を面白がるだけでは不十分。三国の物語を読み、人々が『義』とは何であるか考える、そんな道徳的に学べる作品にしよう。そのためには『義』を象徴する関羽のキャラクターを、もっと素晴らしいものにするべきだ」

『演義』に筆を入れた李卓吾、毛綸・毛宗崗父子といった文人たちは、教養に溢れていました。彼らは版を重ねるごとにより洗練された「義の人」関羽像をつくりあげていくことに力を注ぎます。

三国志の物語は、盛り場で面白可笑しく語られるだけではなく、教養や道徳のために読まれる本へと洗練されていったのです。

そしてその過程で、不純物とみなされた史実の要素が削られてゆきます。

例えば正史から読み取れる、「関羽が呂布の部下の美人妻に気があって未練たらたらだった」という話は、バッサリとカット。

代わりに、曹操が美人を使って関羽を誘惑しようとしても頑として拒むという話が作られました。

『義』の人・関羽に色気は不要なのです。

史実の関羽はどんな人であったか?

それはどうでもよいのです。

関羽には、その時代の人々が求める理想像、最高の『義』が投影されました。

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