博識で知られる登場人物の一人・豊子が早押しテレビクイズに挑戦しました。
「日本人で初めてカレーライスを食べたのは誰でしょう?」
【ピンポン!】
「山川健次郎!」
豊子は見事正解します。
ところで、この山川ってのは……?
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カレールーは「上につけるゴテゴテしたもの」
山川健次郎は、会津藩家老の二男として誕生。
戊辰戦争では白虎隊士として戦いました。
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戦後はツテを頼り長州藩士・奥平謙輔(おくだいら けんすけ)の書生として、アメリカ留学を果たすことになります。
そして健次郎は、のちに東大総長等を歴任し、日本を代表する科学者・教育者となったのでした。
その彼がカレーライスを食べたのは1871年、アメリカ留学へ向かう船でのこと。
まだ16才の育ち盛りであった健次郎ですが、洋食の臭いがキツくて食べられません。
私達が今日フツーに食べている洋食も、当時の日本人には「臭かった」と感じられたのですね。いかに和食がシンプルなものか、ということをイメージさせます。
しかし、ともかく若い健次郎ですから何か腹に入れなければ身体が持ちません。
「きみ、ちゃんと食べないと体に悪いよ」
医師にもそう言われ、慣れない洋食の中から健次郎が選んだのが、“ライスカレー”でした。
スパイシーな香りに食欲をソソれられたわけではなく、
『米飯ならばなんとか口に来るかもしれない!』
と考えたのです。
健次郎は、福沢諭吉の著書を読み、『食事に苦労することになるだろうな……』とは覚悟していました。
佃煮や梅干しを持参するとよいという助言まで書いてありました。
しかし、戊辰戦争に敗北した会津からやっと脱出し、書生としてなんとか留学までこぎつけた健次郎に、食にまで気を回す余裕などありません。
「上につけるゴテゴテしたもの」でしかないカレールー。
スパイスの発する強烈な臭いをこらえつつ、杏の砂糖漬けを副食物に、ルーを避け、米飯だけを食べたのです。
これまた、インドやタイだけじゃなく、スリランカだのエチオピアだの、各国カレーを味わう現代日本人からすれば理解不能かもしれませんね。
しかし彼の行動は、例外ではありません。
初の洋行、初の洋食で、多くのサムライたちも恐る恐る口にしておりました。
いったい彼らは、どう立ち向かったのでしょうか?
海外旅行中でも味噌を食べたい問題
黒船の来航以降、幕府の役人たちはじめ、日本人はぼちぼち海外へ渡るようになり、新たな味覚と出会います。
「文久遣欧使節(1862年1月-1863年1月)」の皆さんの旅を通して、その事情を振り返ってみましょう。
日本を出発した使節団がまず直面したのは、味噌問題でした。
故郷の味が恋しい日本人は、味噌を持参したい。
ところが相手からすれば、悪臭が酷くて嫌で仕方ないわけです。
味噌を持ち込むか、持ち込まないか。そんなことで議論が起こったほど。
結局、日本からシンガポールにたどり着いたところで、
「臭イヨ!」
とイギリス人船員から苦情が出て、海中投棄する羽目に陥ったそうです。まあ、仕方ないかもしれませんねぇ。
日本人が抵抗感なく食べることができたのは、果物でした。
パイナップル、バナナ、オレンジ、葡萄等は、問題ありません。
むしろ、美味しいと大好評で、特にデーツは「見た目は棗(なつめ)、味は干し柿そっくり!」ということで、郷愁すら感じさせたそうです。
フランスのホテルでわざわざ刺身を食べるなり
一行はヨーロッパ、しかも美食の中心地フランスにたどり着きます。
ホテルでは豪華な食事が提供されました。
しかし……。
「肉は食えない。乳は獣臭い。揚げてあるから魚も野菜も嫌だ。何も食えないではないか!」
と、全く受け付けない日本人もおります。
苦肉の策で、魚を買ってきておろし、刺身にして食べたりしておりました。
ちなみに醤油は持参です。さぞ、わさびが恋しかったでしょうねぇ。
そうかと思えば、福沢諭吉のように「郷に入りては郷に従え」とばかりに、洋食に馴染もうとする者も出てきました。
福沢の場合、緒方洪庵の「適塾」時代に肉食になじんでいました。
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また、江戸期の長崎では肉食の慣習があり、蘭学を学ぶものは肉食に慣れ親しんでいる者が多かったそうです。
洋食になじもうという努力の甲斐あってか、フランスの次に立ち寄ったイギリスでは、ほとんどの日本人が洋食を積極的に食べるようになっていたそうです。
ナイフとフォークを使って洋食に挑む日本人の姿を、現地の人々は好奇心いっぱいに、温かい目で見守っていました。
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