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【久坂玄瑞】
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文と辰路
久坂は動乱の京都に行く前、養子・粂次郎に一目会いたいと切望しています。そこには、家族を思う切々たる思いが感じられるのです。
が、ここでちょっと突っ込みどころがありまして。
養子・粂次郎には会いたがるのですが、妻・文とは会おうとしないのです。
気を揉んだのか、文と松陰の兄である杉梅太郎が、萩で妹・文に会って欲しいと頼みますが、久坂は断ります。
久坂は文を好みの容姿ではないと述べておりますが、それが原因かどうかはともかく、彼女への熱烈な愛情はあまり感じられません。
残された手紙の文面も、事務的でした。
これは仕方ないことで、当時の人々にとって結婚とは、あくまで家の存続のためのものであり、恋愛感情がなくとも不思議ではないのです。
それでも文は、おそらく初恋の相手であった久坂を生涯慕い続けました。
亡夫の手紙を大事に保管し『涙袖帖』としてまとめるほど。彼女はその後、姉の夫であった楫取素彦と再婚しますが、その際にも『涙袖帖』を持っていったそうです。
そして晩年まで、この『涙袖帖』を読み返していたのでした。
フィクションにおける久坂のロマンス相手は、文よりも、京の美妓として有名であった辰路の方が有名でした。
美男美女の絵のなるカップルとして、この二人は人気があったのです。
久坂と辰路の間には、秀次郎という男児が生まれております(母親は佐々木ひろ等、別人という説もあり)。
秀次郎は久坂家の跡継ぎとして認知。久坂家に養子に入っていた粂次郎(文の姉・寿子と楫取素彦の子)は、実家に戻されました。
文からすれば、夫を失い、我が子として育てた粂次郎を戻さねばならず、家は愛人の子が継ぐわけで、かなり複雑な心境であったと思われます。
前述の通り、現在まで伝わる久坂の肖像画は、秀次郎をモデルとしたものです。
「禁門の変」に散る
運命の元治元年(1864年)6月。久坂らは、三田尻を出航し京都を目指しました。
長州藩兵3千名が、伏見・嵯峨・山崎に着陣すると、これに対し、一橋慶喜は強硬に撤兵を要求します。
久坂はここで、世子・毛利元徳の到着を待つべきだと考えました。
これに納得できないのが、来島又兵衛です。来島は、世子到着の前に「君側の奸を倒すべきだ」と主張します。
そんなことをしては朝敵になる、しかし退くに退けない――こうして久坂は、後戻りできない道へと踏み込んでゆきます。
軍勢は三手に分けられ、それぞれが御所へ向けて進軍しました。
禁門の変(蛤御門の変)が起きた不都合な真実~孝明天皇は長州の排除を望んでいた
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御所を守るのは、薩摩と会津。
奄美大島から復帰した西郷隆盛の奮闘もあって、来島は御所の前で撃退、戦死を遂げます。
久坂は、長州藩に同情的であった関白・鷹司輔煕邸へと撤退しました。そこで鷹司にすがりつき、朝廷への参内を嘆願するのです。
が、そんな願いが聞き入れられるハズもなく、久坂は鷹司邸の門から出たところで越前藩兵に襲われ、左脚を負傷してしまうのでした。
傷は骨まで到達し、真っ赤な血が脚を染めてゆきます。
久坂の白い顔は、みるみるうちに蒼ざめました。久坂は手ぬぐいを傷口に巻き付け、屋敷内に戻ります。
傍らの寺島忠三郎は、久坂にこう声を掛けました。
「もうやろうか」
久坂は答えます。
「もうよかろう。殿に迷惑をかけるわけにゃあいかん。わしは腹を切る」
こうして追い詰められた久坂は、切腹して果てました。享年25。
久坂は志半ばにして斃れましたが、彼の遺志を継いだ長州藩士たちの歩みは止まりません。
彼らの手によって、明治維新が成し遂げられることになります。
久坂の不可解さ
久坂の生涯をたどると、不可解な点がわいてきます。
愚かであったとは、到底思えません。
切れ者であり、怜悧です。
後に西郷隆盛は木戸孝允に対し、こう語ったとされます。
「久坂先生が生きちょられたなら、おいどんらは互いに参議などと威張ってへられんやろう」
西郷や木戸より、才略において上であった。そう評価しているのです。
多少はリップ・サービスが入っていたとしても、能力のほどが知れるでしょう。
ただ、そこまで賢い久坂が、なぜ攘夷の非を悟らず無謀な砲撃を続けたのか。
なぜ、孝明天皇の意志に反して現実逃避するようなことを続けたのか?
挙げ句、高杉晋作の反対まで押し切って京都に進発し、散ることとなったのか?
その判断が難しいのです。
久坂の目的がいまひとつわかりにくい。
例えば【勝海舟の目指した国家像はどのようなものでしょうか?】という問いには、答えが簡単に出ます。
なぜ勝海舟は明治維新後に姿を消したのか?生粋の江戸っ子77年の生涯
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嘉永6年(1853年)に彼が幕府に提出し、阿部正弘が太鼓判を押した案があるからです。
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実際に目指した国家像は、実はこの勝あたりのプランが正解で、明治政府の行った政策とほぼ一致します。
一方で、久坂や彼の師である吉田松陰のめざした国家像は、どうしても勝のものと比較すると具体性に乏しく、大言壮語的に思えてしまうのです。
吉田松陰の明言というのは素晴らしく、若者の夢や好奇心、可能性を伸ばすようなものがたくさんあります。
シニカルでひねくれがちな勝よりも、名言集にはふさわしいものです。
「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」
うんうん、その通りだ!
人というのはこうでなくてはいけない!
そう思えてしまいます。
ただ……夢や志を持って立ち上がり、自分の可能性を信じて、たくさん勉強して、素晴らしい国を作るというのはわかったけれども。
『その素晴らしい国を実現するためにはどういう政策が必要なのか? 何をすればよいのか?』
となると、ちょっとこれが掴みにくいのです。
行動となると、さらに難しい点があります。
勝の場合は、「これから海軍を鍛えないと話にならねえ。海軍伝習所を作るぜ」となる。
一方で久坂の場合は「わしらの意見を通すために、公卿を動かして勅を出してもらおう」となってしまう。
具体的な行動の前に、正統性を強化しようとするのです。
幕臣と長州藩士では立場が違う――それはもちろんありますが、本当に国家をよくするためにその行動は必要なのか、イデオロギーを重視し過ぎてはないか、と感じてしまいます。
一般的に、こうした久坂の行動は、尊皇攘夷を掲げた純粋さの発露とされています。
でも、本当にそうでしょうか。
彼の中ではむしろ、師匠であり義兄である吉田松陰の思いが第一で、尊皇も、攘夷も、その実現のための、手段ですらあったように思えるのです。
久坂は尊皇を掲げて、孝明天皇のために尽くし、そのために滅んだという見方もあります。
それはむしろ、久坂が憎んだ松平容保のことではないでしょうか。久坂の言動は、むしろ孝明天皇の意志に反しています。
尊皇も、攘夷も、倒幕も――それは生前、松陰が掲げた理想でした。
情勢や世間の人々の考えが変わり、天皇の意志まで動いても、松陰未完の遺志は死者であるがゆえに絶対に動きません。亡霊のようにそこに留まり続けるだけです。
久坂の中で、松陰の思いは北極星のように絶対不動のものでした。
情勢に合わせて身の振り方を変えるよりも、情勢を松陰の遺志に近づけようとする――それが久坂の努力であり、純粋さであったのでしょう。
久坂は必要とあれば、謀略の行使も辞さない男でした。
しかし、その謀略は自らの利益を得るためでも、長州藩を有利に動かすためでもなく、【松陰の遺志を貫徹するため】と考えると様々なことがスンナリ繋がる気がしてなりません。
より純粋であるために、謀略を行使する――。
一見、矛盾したことが、松陰と久坂の関係性では成立してしまうのですね。
松陰後継者としての生き方
天涯孤独の久坂にとって、家族のように彼を迎え入れ、義弟にまでなってくれた吉田松陰。
彼を見込み、育て上げてくれた松陰。
教育者としての彼は温かみがあり、熱血漢で、素晴らしい人物であることは言うまでもありません。
しかし、冷静に考えてみますと……。
松陰は、アナーキーな人物であります。
・宮部鼎蔵との東北旅行の際、予定していた出発日を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たずに出発。当時の重罪である脱藩をしてしまう
・金子重之輔とともに、長崎に寄港中のロシア軍艦に乗り込もうとするが失敗
・金子重之輔とともに、漁民の小舟を盗み、ペリー艦隊の旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて乗船するも渡航拒否される。下田奉行所に自首、投獄される
・日米修好通商条約締結に激怒、老中・間部詮勝に攘夷実行を迫り、断れば殺害する計画を立てる。この際松陰は、「死を恐れない少年3、4名を松下村塾まで手配して欲しい」とまで考えていたほど
・伏見で藩主・毛利敬親を待ち伏せし、京に入る計画を立てる
確かに彼自身は純朴で、よい人ではあったかもしれません。
しかし、その言動は過激の一言。彼の本質は革命家であり、そのために国のルールを破ることは何とも思っていなかったのでしょう。
松陰ってそういう人だっけ? と思う方もおられるかもしれません。
大正から現在にかけて、教育現場で教えられる松陰は、無害な熱血教育者像です。国と正義感を大切にする、品行方正な青年であった――そう教えられているのです。
むろん、それは否定しません。
吉田松陰の熱烈な愛国心は、疑問の余地を挟めないほど素晴らしく、教育者としても極めて優れていたことは間違いありません。
ただ、それだけの人物でもないわけでして……。
久坂の言動に関しては、こうした松陰のアナーキズムまで継承したと考えれば、納得できるかもしれません。
松陰が間部詮勝暗殺計画を持ちかけて来た際、久坂と高杉晋作は断りました。そのため松陰は久坂にすっかり失望していたほどです。
しかし松陰の死後、前述の通り久坂は、その死を悼み大々的にプロデュースしています。
好意的に見れば、義兄であり恩人である松陰を顕彰したい純粋な気持ちと言えます。
久坂は松陰を祭り上げる過程で、彼の言葉を信じ、酸素のように吸い込み、酒を飲むように酔ったのだとは考えられないでしょうか?
かつて松陰の暴走を諫めていた久坂が、師のように暴走し、過激な行動に出てるようになっているのです。ライバルである高杉が「大馬鹿者」と呆れるほど、先鋭化していきました。
松陰の思想と一体化するあまり、そのアナーキーさまで取り入れてしまったかのように思えます。
吉田松陰にせよ、久坂玄瑞にせよ、敬愛すべき点はたくさんあります。
しかし、敬愛と盲信は、別物でしょう。
明治維新150周年という節目を迎えている今年、彼らの反省点を今後に生かしても、未来への財産となるはずです。
久坂や松陰が抱いていた、自分が正しいものに突き進むためには、手段すら選ばなくてよいという傾向は、反面教師とすべきでしょう。
「ここで意見を曲げたら、このために犠牲になった先人が報われない!」
そんな動機で失敗へと突き進んで、振り返らず前進するような行動も、慎むべきでしょう。
先人を知り、その見習うべき点と欠点を客観的に判断し、良いところを吸収すること。
それが私たちに求められていることではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
一坂太郎『吉田松陰 久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」』(→amazon)
『国史大辞典』
やまぐちISHIN(→link)
他