レオン・ド・ロニー

レオン・ド・ロニー/wikipediaより引用

幕末・維新

元祖ニッポン大好き外国人レオン・ド・ロニーとその他の個性的な訪日外国人とは

クールジャパンという言葉が生み出される前から、日本好きの外国人はたくさんいました。

昔ながらの日本の風景・文化に引かれて来日した人で、その代表が1837年4月5日、フランスに生まれたレオン・ド・ロニーでしょう

この「ド」(ドゥ)は貴族固有の冠詞ですので、少なくとも良家の生まれだったことはわかります。

ちなみに英語だと「オブ」、ドイツ語だと「フォン」、イタリア・スペイン語で「デ」(ディ)がついたらだいたい身分の高い人の目印です。

ちょっとした目安になりますので覚えておくと便利かも。

レオン・ド・ロニー/wikipediaより引用

 


17才で日本語学に関するレポートを発表

レオンは代々学者さんの家に生まれ、彼も学問の道を志しました。

当初は植物学者を目指していたそうです。

が、どこでどう道を間違っ……失礼、路線を変更したのか、当時ロクに資料もなかったであろう日本語を独学で身につけます。

一説にはシーボルトなどの影響だそうです。

シーボルト/wikipediaより引用

母音も子音も文字も共通点のない他言語を自力で身につけるとか根性パネェっす。

17歳の時には日本語学に関するレポートを発表しており「アナタ、一体どこからソースを持ってきたの?」と聞きたくなります。

シーボルトがオランダ帰国後に出した日本に関する研究書は、おそらくオランダ語かドイツ語で書かれているでしょう。その辺から攻めていったんですかね。

 


日本使節団の通訳を務めるほどペラペラだった

細かい経緯は不明ながら、レオンの日本語はメキメキ上達。

1862年に文久遣欧使節がパリへやってきたときには通訳を務めるほどでしたので、日本人にも通じるくらいペラペラだったことになります。ホントどこからどう学んだんだ。

使節団には仕事以上にはりついていたようで、その中の一人・福沢諭吉がこんな記録を残しています。

若き日の福沢諭吉/wikipediaより引用

「フランス政府からロニーってヤツが来た。

パリだけでなくオランダにもついてくるくらい熱心だったけど、母親が病気になったからってことで帰った。

その後ベルリンへ追いかけてきたらしい。俺らがロシアに出発した後で、入れ違いになったけど。

でもペテルブルクまで来やがったよコイツ。金も時間もかかるのに何やってんだ?

ヨーロッパで一番の奇人に違いないな」

※超訳ですので悪しからずご了承ください。

あの福沢諭吉に(いい意味での)奇人扱いされるとかどんだけー?

 


フランスの外国研究所で日本語学の初代教授に

このストーキンg……熱心さにはフランス政府もドン引きしたのか。

「お前日本ひいきしすぎだからもうダメ」とお咎めを受けてしまうのですが、彼の知識欲はそんなことでは引かぬ媚びぬ省みぬ状態。

翌年にはフランスの外国研究所で日本語を教え始め、正式に講座ができたときは初代教授を務めます。

一応フォローしておきますと、この時代に【開国する・しない】を含めた政治的な面や浮世絵他の芸術面など、いろいろな理由で日本へ興味を持つ人は、ヨーロッパのあちこちにおりました。

ゴッホが浮世絵を集めていた話なんかが有名ですかね。

ゴッホの自画像/wikipediaより引用

ですので、レオンだけが日本へ関心を持っていたわけではないですが、いかんせんレベルが桁外れです。

ファイナルファンタジーで普通の人が一般兵だとしたら、レオンの執念は魔導アーマーぐらいじゃないでしょうか(わかる人だけでスンマセン)。

その後も彼はパリ万博で委員を務めたり、日仏間の学術上の交流に貢献したり、仏教の講義までやっています。

ある意味、悟りは開いてますね。

 

ほかにもたくさん!日本ヲタな外国人たち

生涯、日本文化への関心は持ち続けていたロニー。

当然、どっかのタイミングで来日でもしてそうですが、意外なことにそれが叶うことはありませんでした。

そもそも文久遣欧使節の目的の一つが「攘夷運動が激しすぎてヨーロッパの人が襲われるかもしれないんで、開港を延期してください」という趣旨のものです。

外国人にとって来日は危険な状況でもあり、そのへんの影響があったのかもしれません。

幕末の外国人は侍にガクブル~銃でも勝てない日本刀がヤバけりゃ切腹も恐ろしや

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もう少し時代が下って明治時代になると、いろいろな西洋人が日本国内を訪れるようになるんですけどね。

そうした人々を何人か見てみましょう。

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