天保二年(1831年)2月8日は、幕府が大坂・安治川の川浚え(かわざらえ)を命じた日です。
川浚えとは、川底に溜まった土砂やゴミを取り除く作業ですね。
これだけなら「ただのよくある土木工事じゃん」で終わりですが、このとき生じた土砂が、現在、海遊館周辺の地名として知られている「天保山」になりました。
「てんぽうざん」と読み「日本一低い山」として知られています。
現在は後述の理由により、日本一ではないのですが……まずはキッカケから見て参りましょう。
関西人 割とノリノリで工事を始める
そもそも、なぜ安治川を浚ったのか?
これには大坂の海運事情が影響しています。
安治川は当時、大坂内陸部への海運で頻繁に使われていました。
また、上流から水が大量に流れてくるために、川底に溜まる土砂の量も多かったのです。
放置しておけば船の航行に影響が出かねませんので、水運が最も効率的だった当時としては早急に解決すべき問題でした。
そこで、幕府が大規模な川浚えを命じたのです。
「お上からのお達し」といえば、さぞかし当時の人はイヤイヤやらされていたのだろう……と思いきや、町奉行の指揮の下、皆ノリノリで働いていたそうです。
工事中には周辺に店が出されて、このあたりに町ができるきっかけになったといいますから、「デカイ工事? なら人が来るじゃないか! 商売のチャンス!」ということだったのでしょうか。さすが商売の町。
江戸だったら、似たようなことを考える人はいても、そこまで大規模にはならなかったかもしれませんね。
北斎や広重の作品にも描かれた天保山
二年ほどの後、約10万人ともされる人手によって、川浚えは無事終わりました。
しかし、川浚えはただ単に土砂を浚っただけでは終わりません。
浚った土砂をどうするか、という問題がでてきます。
そこで、「港の入口になる目印として、築山を作ったらいいんじゃないか」ということで、天保山が造られたのです。
最初のうちはそのまま「目印山」と名付けられたそうですが、後年になって、当時の元号から「天保山」と呼ばれるようになりました。
当時から名所として知られていたのでしょう。
天保山とその周辺の様子は、歌川広重や葛飾北斎など、浮世絵の大家によって描かれています。
幕末には、要港である大坂警備のため、砲台を設置。
東京のお台場と似たようなものですね。
このために土が削られ、標高が低くなってしまっていました。標高7.2mほどだったそうですから、一般的なビルの2階くらいでしょうか。
明治時代には周辺をリゾート施設として整備されたこともありました。
が、場所柄かうまくいかず、元の港に戻り、現在の天保山公園ができたのは昭和三十三年(1958年)のことです。
するとその後、地下水の汲み上げによって周辺の地盤が沈下してしまい、天保山の標高も下がり続けた結果、平成五年(1993年)には4.53mにまでなってしまいます。
このため「もう山扱いしなくていいんじゃね?」と思われ、一時は地図から山の名前が消えたこともあったとか。
地元住民の要望によって、すぐに再掲載されたとのことですので、長く愛されてきたことがうかがえます。
今、日本で最も低い山は標高3m
さて、冒頭で述べた通り、2017年2月現在、「日本一低い山」は天保山ではありません。
宮城県仙台市の「日和(ひより)山」です。
こちらは、明治時代に近隣の漁師が船を出す日和(天気)を見るために造られた築山。
江戸時代まではこのあたりでも海運が盛んでしたが、明治時代になると鉄道輸送に押されて、輸送船が減ってしまいました。
それでも、漁師さんたちのお仕事はなくなりませんから、天候は重要です。
そこで「港に近い位置で天気の推測ができる場所」を作ろうという狙いで、日和山が築山されました。天保山と違い、お上の命令した工事ではなく、地元住民が数年かけて盛り土をしたのだそうです。
戦後の高度成長期に仙台港が整備されたり、周辺住民の生活が変化したため、現在の日和山がその名の目的で使われることはほぼなくなったとされています。
東日本大震災でも被害を受け、一時は「日和山は消滅した」とも受け止められていました。
しかし2014年に測量が行われた際、「日和山は標高3mの“山”である」と再び認識。
日本一低い山として認められたのです。
日和山周辺は2015年にオープンした仙台うみの杜水族館や、鳥獣保護区となっている蒲生干潟などもあり、自然に親しめるスポットとなっています。
合わせて訪れてみるのもいいかもしれません。
築山を”山”と感じるかどうかは人それぞれですが、歴史的な経緯と地元からの愛情が存在するからこそ、ずっと存在しているのでしょうね。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
国立国会図書館
天保山/wikipedia
日和山_(仙台市)/wikipedia