江戸時代

これぞ老害?水野忠辰の足を引っ張り「主君押込」に追い込んだ重臣たちの愚

宝暦二年(1752年)3月22は、岡崎藩主・水野忠辰(ただとき)が隠居させられた日です。

家臣によって殿様が強制的に隠居させられることを「主君押込(しゅくんおしこめ)」といい、水野忠辰もまたそうなった一人。実は他藩でも例があります。

大体の場合は、殿様が問題で、家臣たちが「この人クビにして、新しい殿様を立てよう!」となったときに行われるのですが……忠辰の場合、少々違った経緯がありました。

 

名門大名と言えども天災と財政難には苦しめられた

水野家は徳川家康の母・於大の方の実家で、いくつかの系統があります。

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最強武将の呼び声高い水野勝成なんかもその一族ですね。

忠辰の家は於大の方の兄・忠守の三男である忠元から始まり、「忠元系」と呼ばれることもあります。

忠元の息子である忠善から、岡崎の主としてこの地を治めるようになりました。忠辰は、忠善から数えて六代目にあたります。

この頃になると、どこの藩でもいろいろな問題を抱えるようになっていました。

兎にも角にも天災と財政難。いかに将軍家の親戚で名門の水野家でも、この2大プレッシャーからは逃れられません。

水野家の場合は老中など幕府の重職につくことも多く、そのぶん出費がかさみがちだったのも拍車をかけたでしょう。

意外かもしれませんが、江戸幕府の老中たちには役職手当のようなものがなかったので、自分たちの領地収入だけで家計や経費をやりくりしていたのです。

しかも、老中になれるような名門ほど、領地は小さくなる傾向があります。これでは、財政難に陥ったり、賄賂が御講するのも無理のないことです。老中にとっての賄賂は、会社員が収入を補うために副業を始めるような感覚だったかもしれません。

とはいえ、財政難のままでいることは気分の良いものではありません。まともな藩主であれば、領民を助けてやりたいという情けもあります。忠辰も、藩主になってからは領国を豊かにしようと、懸命に努力しました。

自ら木綿の着物を着て、食事は一日100文以内という厳しい倹約をし、領内にも節約するよう命じています。

お殿様自らこれほどの節制をしたことで、下も倣ったのか、数年で岡崎藩の財政は驚くほど健全化しました。

藩士の借金を肩代わりしたり、給料の前借りまでできたというのですから、かなりのものです。

 

家格を問わない実力人事が重臣たちの反感を買い……

成果が出たことで安心した忠辰は、次のステップに進みます。

江戸で暮らしていたときの近習たちを含め、家格を問わず実力のある者を登用しました。目をかけられた彼らもよく働き、忠辰とともに領民から慕われるようになっていきます。

どこもかしこもビンボーな江戸時代に、年貢の減免ができたというのですから、いかに人材に恵まれていたかがわかるというものです。

しかし、これが面白くないのは、岡崎藩で代々お偉いさんを務めてきた家の人達です。

「殿はどこの馬の骨ともわからんやつらばかりを重用して、ワシらのことはないがしろにする!」

そういった妬みを爆発させ、改革の邪魔をしたのです。正室と側室みたいな争い方ですね。
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