昭和四十年(1965年)3月24日は、隅田川が命名された日です。
「オイオイ、あんな有名な川の名前が最近決まったわけないだろう」
そう思われた方もいらっしゃいそうですね。
実は、この日まで「隅田川」というのは千住大橋から下流の俗称だったのです。
それまでは荒川と呼ばれていたのですが、治水工事などの影響で流れが変わったため、「隅田川」が採用されたのでした。
何やらややこしい話ですが、以下、呼び名を統一して、隅田川の歴史を見ていきましょう。
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元は下総と武蔵の境目を流れ繋げる橋が「両国橋」
隅田川は、流域や時代によってさまざまな名前で呼ばれてきました。
一番古いのは平安時代の「住田河」「宮戸川」で、その他、墨田川、角田川など同音異字の呼び名も多かったようです。
江戸時代の前期までは下総(千葉県北部)と武蔵(東京都と埼玉県の一部)の国境でもありました。
JR・都営地下鉄の両国の近くにある両国橋は、「両方の国にかかる橋」として名づけられたものです。
しかし、それゆえに、戦略上の理由から隅田川にはあまり橋がかけられませんでした。
例外は千住大橋で、文禄三年(1594年)に東北方面への戦略のためかけられています。他にも幾つか橋はあったようですが、増やされたのは【明暦の大火】の後でした。
大火の被害が甚大だったことから、隅田川にも他の橋をかけることが決まったのです。
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また、渡し船もあちこちで営業していました。
勝鬨橋は「勝鬨の渡し」と呼ばれていた渡し船の名にちなんでつけられたもので、他にも千住汐入大橋・厩橋・佃大橋などの位置に渡し船があったといわれています。
大田南畝の狂歌で「きょうは祭礼 あすは葬礼」
「春のうららの隅田川」で有名な滝廉太郎の「花」が書かれた明治時代には、人々は木製の橋か渡し船で両岸を行き来していたということになりますね。
しかし、ほとんどどの橋が木製だったため関東大震災でほとんど燃えてしまい、順に鉄筋コンクリートの橋に架け替えられていきました。
おそらく首都圏の小中学校に通われていた方は、小さい頃に「火災旋風から逃げようとしたが橋が渡れず、川に飛び込んだ」という人の話を聞いたことがあるのではないでしょうか。
それまでにも、永代橋では文化四年(1807年)のお祭り、両国橋では明治三十年(1897年)の花火大会の際に見物客が多すぎて橋が壊れ、多数の死者が出ています。
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なぜその時点で「何か起きたらまずいから、少しずつ変えていこう」と思わなかったのか……。不思議でなりませんが、まあ災害対策って、どうしても後手後手になりがちですよね。
でも、そうしてくれていたらその後の死者は減っただろうとやるせないものです。
永代橋の件については、狂歌の大家・大田南畝が
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
というブラックにもほどがある歌を詠んでいます。
幕府批判の意味も感じられますので、よくしょっぴかれなかったものです。
さて、隅田川といえばもう一つ欠かせないイベントがありますよね。
皆さんご存じ「隅田川花火大会」です。
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