日本の高校総数は全国で4,874校(2020年→wiki)。
受験重視の私立があれば、伝統の名門公立もあり、さらには少数選抜の国立など。
各校それぞれ特徴を持つ中、ひときわ異彩を放っているのが「藩校の流れを汲む」学校ではないでしょうか?
「ナントカ館」中学やら、「ナントカ館」高校など。
例えば、山形県立「興譲館」高校は、米沢藩の藩校から流れを汲むと高校の公式サイト(→link)にも記載されており、ある種のステータスであることも間違いないと思います。
では、そのルーツとなる藩校って、実際はどんな感じの学校だったか、ご存知でしょうか?
そりゃまぁ、武家直結なんだから、無茶苦茶キビしかったのだろう。
剣道は当然必須で、生意気だとボコられたりして……?
とまぁ想像が広がりますが、文化5年(1808年)8月7日は【会津藩港日新館】の設立や運営に尽力した田中玄宰(はるなか)の命日。
全国的にも有名な同藩校を例にして、江戸時代の校風やカリキュラム等を見てみましょう。
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日本初の民間学校は会津の「稽古堂」
江戸時代の宝暦期(1751〜1764年)。
このころ全国の諸藩は、経済改革の必要性に迫られておりました。
荒々しい戦国の世は遠の昔に終了しており、新しく求められるのは、人口増加や藩の産業を担える優秀な人材。
まず何に手を付けるべきか?
多くの藩で答えが一致しておりました。
「藩士の子弟を鍛えて、優秀な人材を育てようではないか」
人作り革命……なんて言うと、現代の企業だっていつもそんなスローガンが掲げられている気もしますが、当時はカタチばかりでなく実際に動きます。
少し時間を戻しまして。宝暦年間から、さらに遡ること約100年前の寛文4年(1664年)。
保科正之・藩主の時代に会津藩は、儒学者・横田俊益の提案を受け、日本初の民間学校とされる「稽古堂」を開設しました。もとは岡田如黙(にょもく)の私塾だったものを学問所にしたのです。
稽古堂では農工商の区別なく、誰でも学問を学ぶことができました。
さすが江戸時代ナンバーワン(候補)の名君・正之です。彼は殊のほか学問所の誕生を喜び、援助を惜しみませんでした。
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そこで学べる学問の内容は、和歌、医学、儒学、経学等、様々な分野に及びました。
まさに画期的な教育期間であったのです。
やがて「稽古堂」は改称を経て中・下級藩士の学校に代わり、民間人は閉め出されることになりました。
現在は会津若松市民の生涯学習総合センターが「稽古堂」と呼ばれています(会津若松市→link)。
そんな経緯を経て、迎えた天明の大飢饉(1782-1788年)。
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会津藩ではその難を機に、財政難が深刻的な状況へと陥っていきます。
東京ドーム半個分の敷地に「日新館」を設立
藩のピンチに立ち上がったのは、名家老・田中玄宰(げんさい)でした。
彼が取り組んだ改革の一端にあったのが、まさしく教育。
実は会津藩では、庶民のための「稽古堂」と同時期に武士のための学校を作ったことがあったのですが、誰も通わなくなって四年で閉鎖されるなど、はかばかしい環境ではありませんでした。
当時の武士は勉強が嫌いだったんですね。そのせいか風紀も乱れていました。
こうなったら素晴らしい藩校を作って、藩士の子弟を鍛え直す――。
それが玄宰の案でした。
当時、上級武士の子弟向けに、東西で2カ所の学校があり、「講所」と呼ばれておりました。
しかしそこでは手狭な上に、あまり本格的な施設とも言えない。
そこで玄宰は、武家屋敷を移動させ、城の近くに広大な土地を確保して藩校の用地とします。
現在は天文台のあとが残るだけですが(TOP画像の写真)、当時は藩の中心地ですから生徒たちも気合を入れざるを得なかったでしょう。
敷地の広さは、
・東西120間(220メートル)
・南北60間(110メートル)
・7200坪(東京ドームの半分)
という広大なもの。
建設費用は、工事の噂を聞きつけた御用商人・須田新九郎が寄付をして、藩校事業は順調なスタートを切りました。
名前の由来は『書経』の「日々新而又日新」から
工事は寛政11年(1799)に始まり、開校までに四年間がかかりました。
名前の由来は『書経』です。
「日々新而又日新」(日に日に新にして又日に新とあり)から取られました。
当時すでに、藩校は全国各地にありました。
それらの先行校に対し、日新館の特色は充実した施設にありました。文だけではなく、武を学ぶための剣道場、弓道場、さらにはプールまで備わっているのです(さらに天文台も)。
プールといっても遊ぶためのものではなく、現代のように水着で泳ぐだけのものではありません。
実戦さながらに衣服、鎧をつけ、馬に乗ったまま泳ぐ訓練をすることもありました。
膳を持ち込んで泳ぎながら食事をする、泳ぎながら書道をする人もいたそうです。どんだけ~!
※「乃木坂46」の「逃げ水」は日新館で撮影されており、中の様子がわかります
アタマが良ければ大学、そして江戸にも行ける
日本屈指の設備を整えた日新館。そこで学ぶ藩士子弟は、どのような日常を送っていたのか。
まず朝になると、少年たちは集団登校します。
当時の授業時間は日が出てから、沈むまで。つまり夏は長く、冬は短くなり、常に千人程度が通学していたそうです。
授業の中身は、その名の通り儒学が中心。いったん入学すると、まずは素読所に入ってみっちりと素読に励みます。
素読所は四級から一級までで、18才で一級修了が平均的でした。中には14才で一級を修了するような優等生もいました。
高嶺秀夫、南摩綱紀、秋月悌次郎など、幕末から明治にかけて名を残した人物たちは、日新館時代から「神童」と称されるほどのデキだったようです。
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勉学の習得具合は、身分によって変わりました。
三百から五百取りの長男ならば二級。五百取り以上の長男は一級修了が義務づけられています。
修了できないと、授業料をおさめて勉学を続けねばなりません。
長男ならば35才、二男以下は21才まで勉強することになります。そうなってしまった人のことを考えると、辛いだろうな、と思ってしまいますね。
素読所で優秀な成績をおさめると、大学へ進めます。
大学でもトップクラスのエリートともなると、江戸の昌平黌に留学できました。
このころから勉強一つで身を起こす術はあったんですね。まぁ、異様に高い壁ですが。そして肝心の授業内容ですが……。
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