本多政勝

本多政勝/wikipediaより引用

江戸時代

忠勝の孫ひ孫が引き起こした「九・六騒動」本多政勝と政利の行く末は

徳川家康の一族や譜代たちって、常に一致団結なイメージがありますよね。

酒井に本多、井伊、松平……跡継ぎを巡る御家騒動なんて起こさない――なんて思われそうですが、その中でもゴタゴタから最も縁の遠そうなあの一族ですら一悶着起こします。

寛文十一年(1671年)10月30日は、大和郡山藩の初代藩主・本多政勝が亡くなった日です。

徳川四天王の一人・本多忠勝のお孫さんですね。

しかしこの政勝さん、あの忠勝の直系とは思えないような言動を重ね、最終的にその息子・政利が【九・六騒動】を起こして、なんとも不格好な顛末を迎えております。

身も蓋もない言い方ですが、ホントにそうなので切なくなってしまいますね。

今回は本多家の系譜をさかのぼって話を始めましょう。

※以下は本多忠勝の生涯まとめ記事となります

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やっぱり自分の息子に跡を継がせたい! by政勝

もともと本多忠勝には、二人の息子がいました。

長男の本多忠政、次男の本多忠朝(ただとも)です。

相続は長男系で進みましたが、忠政の息子・政朝(まさとも)が早く亡くなったことで事態がこじれ始めます。

政朝の息子・政長はまだ幼く、家臣がサポートするにしても不安が拭えなかったのです。

◆忠勝から続く本多家の流れ

忠勝

本多忠政(長男)

本多政朝

本多政長

忠勝

本多忠朝(次男)

本多政勝

本多政利

また、本多家では慣習として「幼君は戴かない」ことになっていました。

そのため、政朝のいとこ(忠朝の息子)政勝が次の藩主になります。

「政長が成人するまでの中継ぎ」という役割。

政勝も始めのうちはそれを守るつもりだったようで、真面目に仕事をしていたのですが、時間が経つにつれて「やっぱり跡を継がせるなら自分の息子がいいなー」と思うようになります。

かくして、ときの大老・酒井忠清に根回しをします。

ちなみにこの忠清、徳川四天王の酒井忠次とは同族ながら、別系統の酒井家になります。

◆忠次→左衛門尉家(さえもんのじょうけ)

◆忠清→雅楽頭家(うたのかみけ)

酒井忠清
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「九・六騒動」と呼ばれるように

しかし、これでは本多家の家臣たちも黙ってはいません。

改めて政勝に「政長様も立派に成長なされましたし、そろそろ」と代替わりをプッシュ。

これにより政勝は、渋々ながら政長へ家督を譲ることを決めるのです。

ところが……。

今度は、政勝の息子・政利(まさとし)が相続を諦められませんでした。

政勝が亡くなった後、再び忠清に頼み込んで藩主の座をもぎ取ろうとしたのです。

なんやかんやあって幕府が間に入り、最終的に

「郡山藩15万石のうち、政長が9万石、政利が6万石を相続する」

ことで片付けようとしました。

「九・六騒動」

と呼ばれる所以ですね。

ここまでの流れだと大したことはないように見えますが、話はまだ続きます。

領地全てを相続できなかったことに大きな不満を抱いた政利は、なんと政長に一服盛って毒殺してしまったのです。

「アイツが死ねば、領地は全て俺のもの!」と思い込んでいたようで。

もしも自分が両家の家臣でしたら「な……何を言っているのかわからねーと思うが」状態でパニクってしまいそうですよね。

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